東海道について
江戸・日本橋と京・三条大橋を結ぶ街道です。この間にある五十三の宿場が確定したのは、庄野宿が宿中で最も遅く成立した寛永元年(1624)になります。さらに大津から分かれて(あるいは京を経由して)大坂に到る間の四宿(伏見・淀・牧方・守口)を入れて五十七次ともされます。
東海道は、徳川幕府の参勤交代のために諸藩諸大名が地元と江戸を往来する際に最も良く用いられたため、諸街道中でもっとも交通が盛んでした。
[古代]
東西を結ぶ古代の官道として東海道と東山道がありました。「海道」という語は「海路を含む街道」という一般的な意味で、古い用例として『続日本紀』に、東国の蝦夷が反乱したという記述があります註。
東海道を通って東西を旅するという記述の有名なものには、『古事記』『日本書紀』の日本武尊命の東征の記事があり、静岡の焼津の地名の由来や草薙神社、神奈川の走水・足柄山、三重の血流坂・能褒野(のぼの)などにその事蹟と称するものが伝えられています。また、初期には河川が多く湿地帯であった関東平野の陸路を避けて、三浦半島の走水から航路で房総半島へわたるルートが、東山道と並んで多く用いられたようです。
その後、承和2(835)年の太政官符ref(『類従三代格』ref)に見られるように、諸河川に渡船や橋が増置されて以来、東海道の交通事情は好転しました。 『更級日記』前半は、菅原孝標女の家族が寛仁4(1020)年に上総(千葉)から京に上る紀行文です。足柄峠を越える際、3人の遊女と出会う印象的なシーンが記述されていますref。
律令の時代の官道は国府を結ぶ直線的で12メートルほどの幅広の計画道路であり、東海道は「中路」註とされました。個人的な旅の往来はほとんどなかったものと思われます。律令制の駅制は平安時代に入って荘園の台頭とともに崩壊しました。
この頃の東海道ははじめ足柄を経由するものでしたが、延暦21(802)年に富士山が噴火した際一時的に筥荷(箱根)路が開かれましたが、翌年足柄路に復旧しました。
[中世]
鎌倉の頃には東海道は京と鎌倉を結ぶ幹線として発達し、「海道」という語は固有名詞としての「東海道」を示すようになりました。個人の旅の記録が見られるようになり、有名な『十六夜日記』の他、作者不詳の『東関紀行』『海道記』refなどが伝わっています。
『十六夜日記の旅』について 『東関紀行』の旅について 『海道記』の旅について
この頃には駅制が崩壊して荘園や寺院などが伝馬・渡船・宿所の世話をするようになり、宿が発達しました。宿には多くの遊女が集まりました。才色兼備の遊女たちの中でも、黄瀬川の亀鶴、手越の長者千手の前、池田の熊野(ゆや)御前、平塚の虎御前などがこの頃の海道を彩る美人として誉れ高い女性たちでした。ref
東海道は現在でも多くのウォーカーや在野の史家が訪れるため、歩くためのガイドブックは非常に多くのものが入手可能ですし、これを扱うHPもたくさんあります。特に江戸幕府の宿場制が成立してから400年の記念の歳となった2000年以降、数多くの情報が入手可能となったので、それらを好きなだけ参照することが可能です。
旧街道のあとを辿るといっても、そのほとんどは現在国道1号線となっています。わたしが1998-1999に歩いた際には、この道は全く自動車のためだけに存在している道という感があり、かなりの長さにわたって歩道の無い区間がたびたびありました。すぐ横を大型車が高速で行きかうのを「いつやられてもおかしくない」と思いながら歩いたのを覚えています。どうか車にだけはお気をつけください。そして道端の小さな交通遺跡やマンホールや「飛び出せボンズ」達をお見逃しなきよう。岡本かの子「東海道五十三次」にもあるように、名所旧跡や山と川と海の眺めが良い具合に配置された、歩き通せば思い出深い道となることは間違いがありません。