【今様膝栗毛】 五街道 フォッサマグナ西端の道 みちのくの道
【街道行脚マニアックス】 【膝栗毛ギャラリー】マンホール膝栗毛 【膝栗毛参考資料】道中歌について 参考文献総覧  稽隆堂お気楽HPへ

今様膝栗毛


今様膝栗毛
五街道
東海道
東海道について
今様東海道中膝栗毛
1998/5-1999/7の歩き旅
中山道
甲州街道
日光街道
奥州街道(白河まで)
  脇街道
姫街道
矢倉沢往還(大山道)
綱島街道(稲毛道)
フォッサマグナ西端の道
身延道
千国街道(塩の道)

みちのくの道

奥州街道(白河以北)

街道行脚マニアックス

今様旅行用心集

街道行脚をもっと楽しむ公式集

膝栗毛ギャラリー

マンホール膝栗毛

タイル膝栗毛

膝栗毛参考資料

道中歌について

参考文献総覧

サイトマップ

今様膝栗毛の旅 >> 五街道

五街道


【ミチと街道(海道)】

 「ミチ」という言葉の語源については諸説ある中で、「ミ」が美称をあらわす接頭語で、「チ」は「おちこち」「あっちこっち」の「ち」、つまりある場所を示す言葉、というのが一般的な説であるということですref。日本の道に関する最も古い記述は『魏志倭人伝』の對馬(対馬)に関する以下の記述であるとされます:

「…山險多深林道路如禽鹿徑…」ref
(山は険しくうっそうとした林が多く道路は鳥や鹿の通る”けものみち”のようである)

 ケモノミチを獣を追って通ったのが、人類の道歩きの初めだったのかもしれません。猟で成功するためには獲物の行動の仕方を熟知している必要があります。ケモノミチがどこをどのように通っているか、足跡からどんなケモノがいつ頃通ったのかなどなのを考証するという行動があったことでしょう。ヒトはその頃からミチを調べながらミチを辿る、という行為を始めたのだと思います。

 もっとも三国時代の日本国内の全ての道が獣道のようなものではなかったようで、たとえば末盧國と伊都國の間が陸行500里であったとか郡の使いが往来するとか言う記述もあり、それなりに整備された道はすでにあったと想像されます。

 「街道」あるいは「海道」という語はいつ頃から使われ始めたのでしょうか。「五街道」という語に関しては後述しますが、小学館『日本国語大辞典』refには、「主要な道路」という意味での「街道」という語が見られる最も古い文献として、1516年頃成立した謡曲『遊行柳』の一節が挙げられています:

「まづ 先年遊行の御下向の時も、 古道とて昔の街道を御通り候ひしなり。」ref

 一方、同じ意味で「海道」という表記があります。もとの意味は海上の道、海沿いの道でした。律令時代にはさらに意味が限定されて、七道中途中に海路を含む東海道・西海道を意味するもの(対照的な語に東山道の山道があります)となり、京-鎌倉の往還の盛んになった鎌倉時代以降には海道と言えば東海道となり、さらには人通りの多い主要道路一般を「海道」と呼ぶようになったようです。この用例としての古い用例は、「狂言・鈍太郎」の次の一節です:

「そなたとわらはとは中なをりをして、海道へ出でて、あふたらはとめん(註:『逢ふたらば止めん』)とぞんずるが」ref

 漢籍において「街中の広い道」を意味する「街道」の語は、日本では「海道」と同音異義の語となりました。やがてその語の示すものは、道に面して建物が並ぶ、現在のわたしたちの心像風景に一致するものになっていったようです。


【五街道】

 いわゆる「五街道」とは、徳川家康が江戸幕府を開いた際に整備された東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中を指します。
 これらの呼称はもともと確たるものではなく、しかもわが国では「街道」と「海道」を表記の異なる同じ意味の言葉としていたことから、海が無いのに「甲州海道」という表記も行われていました。五街道の呼称が公式に確定されるのは、正徳6(または享保元1716)年の御触書以来とされています。それによれば、「東海道は海端を通るので"海道"と言うべきである。中山道はこれまで"仙"の字を用いて(中仙道と)書いていたが、これからは"山"の字を用いるように。 奥州道中、日光道中、甲州道中は海端を通らないので"海道"とは呼ばないように。」という意味のことが書かれています。ref
 公的にはこのように定められても、あまり広くは浸透しなかったようです。後の宝暦8(1758)年に、依田和泉守が大伝馬町馬込勘解由に「五街道とはどの海道を言うのか」と尋ねた際に、勘解由は「道中奉行様が五ヶ宿と言うのを度々聞いたことがありますが、どの海道を五ヶ宿と言うのかわかりません。東海道・中山道・日光海道・北陸道を海道と言うように覚えていますが、これも五海道に含まれるのかどうかわかりません。」というような答え方をしています。しどろもどろに答えた有様が眼に浮かぶような記述です。なお、勘解由はその問いのあった翌日に道中方御勘定の谷金十郎から以下のように答えを教えてもらったと言うことです

一、東海道 品川より守口まで
  美濃路 名護屋より大垣まで
  佐屋廻り 岩塚より佐屋まで

一、中山道 板橋より守山まで
一、日光道中 千住より鉢石まで
  壬生道 板橋より岩淵まで
  水戸佐倉道 新宿より松戸まで

一、奥州道中 白沢より白河まで
一、甲州道中 上高井戸より上諏訪まで
右五口五海道と申、道中奉行御支配ニ御座候ref

五海道の呼称は正徳6年の御触書と一致していますが、「五海道」という表記にはやはり、「街道」と「海道」が同義であるとした従来からの習慣が抜けていないことを感じます。

その後五街道には、日光例幣使街道、御成道が付属することになります。


【五街道の付属街道と脇往還】

「脇往還」というのは語から想像すると、主要な街道の宿場から別の主要な街道に到る道や、難所・関所などを迂回する道のことと思ってしまいますが、江戸時代においては、道中奉行が支配しなかった、地方の主要街道を言うようです。たとえば東海道の付属街道である先の佐屋路などは「東海道佐屋路」などのように表記され、東海道に付属するものとして扱われ、これを脇往還とは言わないようです。

 脇往還は脇街道・脇道とも呼ばれ、それらを中央から支配したのは勘定奉行でした。ただしその権限は人馬賃金や道路の付け替えの許認可権などに限定され、実際の運用は各地方の藩が行ないました。これらは各地方の幹線であり、藩の城下町などを起点として他の領内へ向って広がります。このような様相を評して近世交通史の研究書ではしばしば「ミニ五街道」と呼んでいます。 ミニ五街道の例としては(かならずしも”五”街道ではありませんが)、会津若松を中心とした「会津五街道」と呼ばれる白河街道・南山通り・越後街道・二本松街道・米沢街道、盛岡を中心とした宮古街道・小本街道・遠野釜石街道、秋田街道・奥州街道、甲府を中心とした秩父往還・身延道・青梅往還・甲州道中・中山道、京を中心とした西近江路・若狭路・山崎通り・奈良街道・大坂街道などが挙げられます。

【ページ先頭へ】