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2023-08-04 [長年日記]
_ 先日、最後の1匹となった猫が旅立って行った。本当はわかっている。旅になど行っていない、ただ、この世からその生命が消えてしまっただけなのだ。なぜ人はまるでその先にまた新しい世界が続いていると考えてしまうのか?死後の世界の存在は唯我論と同様に、論理的には否定できない。だからこの場合、それが正しいと仮定した時と正しくないと仮定した場合とで何が違うのかを比べてどちらかを選ぶことになる。どちらがより少ない仮定で多くを説明できるかで選ぶ、というのは僕の好きな立場だが、一方、どちらの仮定がより多くの豊かな結論を導くことができるか、で選ぶ立場もあるだろう。前者の立場に立てば「お化けなんていない」と考えるのが正しいことだし、後者に立つなら、「お化けがいた方が楽しい(あるいは怖い)。だからお化けはいると考えよう」ということになる。情報理論を信じる者は前者を選び、水木しげるさんは後者を選ぶ、ということなのだ。どちらもリーズナブルだ。そんな訳で、僕自身は両方の立場を自分の都合で選ぶことができる。自分の生活が大事な時は死者はいないと割り切り、一方で死者に香を手向けるのも好きだ。この猫の死を深甚にこそ思えど、悲しいとは思わない。何しろ享年19歳。兄妹の中では一番病弱そうに見えた彼が人間なら90を超える大往生を遂げたことは世の複雑さの表われの一つ、ではあっただろう。生まれて足腰がしっかりした途端に脱走して、帰ってきた時には前足を骨折していて余程治療費がかかったという親不孝者である。
当然、あれから僕も19年歳を取った。この先さらに19年も生きるようなパートナーを新たに迎えてその最後を見届けることはできない可能性も高い。それよりは、「もう猫のいない」という新たな生活を楽しむことにする。食べかけの餌は捨て、爪研ぎを捨て(もっともこの最後の猫は爪とぎを忘れてしまったので、晩年は巻き爪が非道かった。猫の巻き爪は凶悪に自らの指に食い込むということを知っているだろうか?一度見ておくのも後の役に立つかもしれない。きっと猫の爪研ぎに寛容な姿勢が生まれるだろう)、部屋部屋のドアは必要なら開け放しのまま。やがて今は衣類にこびりついている猫の毛も消え失せてしまうだろう。これらのことの中にこそ、先に死んだ者たちが後を生きる者たちの中に存在し続けることなのかもしれない。かつてあったものは無くなった時には以後永遠に無いままだから、その「無いこと」の証拠の数々がその人を想うよすがとなるのなら、それはその人がそれによって永遠に生き続けているということとあまり違いが無い。人はいなくなる事によってのみ逆説的にいつまでも在り続けることができるのである。僕もそんな風に誰かの中で永遠に生き続けることができるかもしれない。それに成功したとしても失敗したとしてもその時当の僕自身はどこにもいない。だからこのミッションには成功も失敗も無い。僕にとっては何と優しいミッションなのであろう。以上、最後の猫への手向の言葉。もちろん彼は聞いちゃいない。
猫さんの19歳はご長寿ですね。けいさんと過ごせて、思い出を語ってもらえて、幸せに思うんじゃないかなと拝察します。兄妹が再び集まって楽しくやってるところを、私も想像しました。 <br>けいさんも人間相当年齢で負けないよう長生きしてくださいませ。
ありがとうございます。まあ僕はいなくなった事によって誰かの中に居続けられるように精進しますかね。