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2010-03-22 センチメンタル・ジャーニー。まとめ。 [長年日記]
_ 「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして」
この歌は伊勢物語の第4段の歌なのだそうで、なぜか覚えていた。今回のセンチメンタル・ジャーニーで実感したことは第一夜に書いたように、時の流れの無常であること、その本質は何か、ということだった。これは大きな体験だった。そして、上に書いた在原業平の歌をなんどか思い起こしていた。月は昔の月のままだ。
花だって昔の花だ。
春は昔から変わらぬ春なのだ。その春が、嵐を伴っておとづれた。
変わってしまったのは、わたしだ。わたし一人だけが変わってしまったのだ。だから、私以外の全てが変わってしまったように見えているのだ。本当に変わってしまったのは私自身なのに。
そんなふうに、反・業平を気取りながら今回の旅を終えた。思った以上にセンチメンタル・ジャーニーであった。会いたいと思っていた人3人のうち1人にしか会えなかった。 その、会えた方の一人、金田一温泉・仙養館の女将さまが心にしみることをいくつか言っていた。大腸癌から立ち直った実兄殿のこと、年を経ると楽しいことは少なくなり、笑う機会がすっかりなくなってしまうこと。人の気分は本当はちょっとしたことですぐに暗くなったり明るくなったりするのに、落ち込んでいるときはそんなことには思い至らないこと、座敷童がいるというので何年先も予約がいっぱいだった某旅館の火災のこと。。。 でも一番印象に残ったのはこのことだ。上に書いたように、座敷童で有名になった某旅館に続いて、わたしが定宿(とか言ってまだ2度しか泊ってない)とする仙養館にもどうやら座敷童がいるらしいという口コミが広まりつつあり、おそらくその噂を頼りにおとづれた老父がいた。突然に息子を亡くした無念さが彼をおそらくは旅に駆り立てたのだろう。幽霊の姿であっても良いから息子に会いたい、そう思ってこの精霊の住む温泉地を訪れたということだった。
わたしのどころではない彼の人のセンチメンタル・ジャーニーにおいてもやはり、思い知ることは時の無常・その本質であったろうと思う。息子さんの霊に会うことはできなかったらしい。 けど、宿の部屋でフラッシュをたいて写真を撮ると、そこにはオーブらしきものが映っていたんだそうな。 わたしはこのオーブなるものが心霊的なるものと関係があるようには思っていないのだが、一応私が寝床を映した画像にも、いわゆるオーブと呼ばれる光球が映っているように見える。 実体験に相当するような昔語りが発掘されるといいのかもしれない。ともかく私のセンチメンタル・ジャーニーは本当にセンチメンタルな側面を深く刻んで終わった。宿でこっそり練習やってたムーン・ウォークも多少スムーズに動くようになった。奥州街道の旅は本当に終わった。そして、見た限りもう、米沢に向かう新しい旅を始めてしまっても大丈夫なんじゃないか、そうも思ったのだった。
旅から帰ったら、案の定、うちのご近所のしだれ桜が開花していた。これが街灯に照らされているのは本当に毎年深甚に思われるイベントだ。今年もそうなった。私にはどうやら早い春が来た。皆様におかれましてはいかがでしょうか。