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2025-03-29 [長年日記]
_ 遅くまで床に居ることには雨と休日の気分と積読の消化と気づきのメモなどの様々な言い訳がある。最近、写真が趣味であるという方とのやり取りがあって、写真を芸術として鑑賞するということは存外大問題であると気付いた。自分にとっては撮影は生活、特に旅先の記憶や印象を記録するためのもの以上の意味は無い。それでもその中には後で眺めると、当時の体験を超えてより一般的なある種の感情の湧いてくるものもあり、そういう時表現や芸術の極小さな萌芽を感じることはあった。その行為を鑑賞と名づけるなら、それは良否の価値観と無縁ではなくなるのが当然だ。一体、良い作品とはどんなものを言うのか。聞けばその写真が趣味の方は教室に通い、技法を学び、他者の作を鑑賞して意見を述べ、自作を鑑賞され意見を受けるという事を重ね、それは必要な事であると考えていた。その事を否定するつもりは毛頭なく、しかしながらこの鑑賞の問題がずっと頭にある。作品から何かを受け取りその印象を述べる時、鑑賞者の主観はどれほどの割合を占めるべきなのか。作品の中のどこを探しても痕跡の無いことに、鑑賞者はどこまで言及しても良いものなのか。また、和歌の枕詞のように、或るモチーフが用いられた場合には暗黙のルールとして共起されるべきイメージはどこまで保たれ、どこで崩されるのか。全く疑問だらけなのだが、自分ならどうやってその作を創造するかという思考実験は鑑賞のための大きな手掛かりになるだろう。それすらも主観による捻じ曲げの懸念を避けることはできないのだが、自分にはそちら側からのアプローチは理解できそうだ。そこまでは考えた。
_ - 歩きスマホが必要な程 詰まらなき世界に吾(われ)は住みおらぬ故(ゆえ)
- むくつけき男共(ども)皆サワヤカに香(かほ)り纏(まと)へる レモン湯の夜