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2024-10-12 [長年日記]
_ [読書] 『小僧の神様 他十篇』志賀直哉作、岩波書店、1928(岩波文庫 緑 46−2)
先日、2015年頃に読んだ森村誠一さんの『60歳で小説家になる』の"供養"をしていたら、志賀先生の『城の崎にて』をエッセイの好例として挙げていたので読むことにした。森村さんは、小説を書くためには作品世界を構築せねばならないから疲れる。疲れたら経験をほとんどそのまま描くことのできるエッセイを書けば良い、という論調でこの作品を紹介したのであった。そんな未来が来るかどうかは兎も角としても、幾つになったとて将来というものはあり、可能性は多いほど良い。それでなくてもそのうち今までできていたことがどんどんできなくなっていくのだ。脳も委縮するかもしれないしサルコペニアで満足に歩くこともできなくなるかもしれない。アクシデントが起きなかったとしても、衰えというものはやがてやって来る。証明は難しいが永遠に生きた人はいないということは、神の存在に賭けるより割りが良いはずだ。
例によってまた自分の終末を想起せしめるようなことを書いてしまったが、実のところ自分は元気一杯で、子供時代にはできなかった前後開脚も左右開脚も三点倒立もできるようになったし、ろくにグリスアップもしないジムのキシむマシンのお陰か20年前よりも胸筋は付いている。おそらく腹筋もついているはずなのだが、未だに割れたところを見たことが無い。つい書いてしまったがそんな自慢はどうでも良い。その『城の崎にて』を収録した掲題の本が今日届いた。志賀直哉と言えば『小僧の神様』というくらい有名な話が冒頭に載っているのだが、そう言えばこの話がどんなものかも僕は知らずに生きてきた。知らなくとも生きてけるからだろうと思うが、それでも耳にしたことぐらいはあるこのお話は一体どういうものなのか。そもそもこのタイトルである。この「小僧の神様」という言葉の中における「神」が一体何を意味しているのかは長年の謎ではあった。可能性として「小僧の神様」の意味することはおよそ以下のようになるであろう:
1) 小僧が信奉する神のこと。(以下「」内は同様の使われ方をする『神』の例)「─は細部に宿りたもう」
2) 小僧にとって神に等しい存在のこと。「お客様は─様です」
3) 小僧の姿をした神のこと。「男─・女─・犬─」
4) 小僧というすべての存在にとって神のように優れ尊敬されるものの比喩。「─待ち」
5) 小僧界(そんな界どこにあるのだろうか)を司る神。「海─ポセイドン・冥府の─ハデス」
6) 小僧界に存在する神。「国津─・天津─」
7) あたかも神のように振舞う小僧。「泣くな野球の─様も たまにゃ三振エラーもする」
それだけではない。「小僧」と言う言葉を取っても
a) 子供の働き手「定吉は日本香堂の─さん」
b) a)のうち特に寺院の小僧。小坊主。「門前の─習わぬ経を読む」
c) 子供を親しみを込めて呼ぶ呼び方。「朗らかな朗らかな野球─」
d) 子供を侮蔑的に呼ぶ表現。こわっぱ。「この洟垂れ─!」
e) 比較的小さなものや部位に対する呼び名。「膝─、 高師─(湿地の葦や稲類の根部に繁殖した鉄バクテリアに由来する褐鉄鋼の塊。天然記念物に指定されているものもある。)」
注:「小憎」は誤用、あるいは意図的な誤用。「爆弾小憎ダイナマイト・キッド」← 単に誤植だったのかもしれないが、テレビのスーパーか東スポあたりの記事にこう書かれていたことがあったような記憶がうっすらとある。
_ という訳で昼休みにワクワクしながらその物語を読んだ。今解き明かされる積年の謎!まあ結論としては2)a)が正解だったかなと。それにしてもこの物語の読後感よ。これが「小説の神様」と呼ばれた巨匠の代表作なのだとはとても信じられなかった。時代背景が違い過ぎるのか、僕の感性に難があるのか。しかもこれ、今もって文庫化されるくらい読み継がれているのだ。あ、でも今ひらめいたぞ。お寿司屋さんのチェーンの「小僧寿し」って、この話を下敷きにしてるのではないのか?ネタバレと言うにはあまりにも有名すぎる話だけど、ここに登場する小僧さんはお寿司を食べたいのだがお金がたりなくて悲しい思いをする。そんな小僧さんでも気楽に食べられるのが「小僧寿し」なのではないのだろうか!?←書いた後で小僧寿しのホームページを見たらその通りのことが書いてあった。えっへん!でも待てよ、「『小僧の神様』に登場する秤(はかり)屋の小僧、仙吉が、高価なお寿司を食べたくても食べられない人のため、寿司屋になろうという気持ちを抱きます。」とか書いてあるが、志賀直哉はそんなことは書いていないようだぞ。まあ小僧寿しの創業者さんにはそう読めたのだと思う。そして仙吉の気高い思いと我々の思いは同じである、などと熱く語っているのだ。彼にとってはもう志賀先生がそう書いたとしか信じることができないのだろう。いや、もう一度読み返したらどこかにそんなことが書いてあるのかもしれない。でも今日はもういいや。結局積年の謎が解けた代わりに、なぜ志賀先生がこんな文章を残そうと思ったのか、そしてそれがなぜありがたがられるのか、などといった別の謎が生まれた。謎なんてそんな風に増え続けて限界効用のように低減などしないのだ。そしてこれだけは学んだ。どんなエピソードも物語になる。だから恐れずに書くべきである、と。
こんなに立て続けに「小僧」とか「神」とか書いたの、人生初だと思う。そして『城の崎まで』はまだ読んでません。
_ [特撮] 『ウルトラマンアーク』「過去の瞬き」、テレビ東京、2024/10/12.
というわけでウルトラマンアークを追う刺客・スイードという役で黒づくめの佐藤江梨子様がご降臨なさったのであった。ノリノリの悪役w 巨大な姿で映画のスクリーンに映っているところから客席に座っているアークとユウマ(このシチュエーションもちょっとセブンとメトロン星人の対峙を想起せしめるシュールな風景だったのだが)に向かってわしづかまんと手を伸ばしてくるところが怖くてなかなか良い。円谷プロの特撮は健在だ。シュウ君を襲って情報を(脳から直接)カツアゲした挙句欲しい情報が無くて「使えないヤツだ」と吐き捨てる。なんという良いオバショタなのかと。どんな男が相手でもショタを〇しているようにしか見えないこと咬膣院魔夢の如し(←わからなくてよい)。次回は是非ともサトエリ様自身が巨大化してアークをぼこぼこにしてほしいものだなあと。またしても邪眼で子供番組を見てしまいました。