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2024-10-18 [長年日記]
_ というわけで岩波文庫『小僧の神様他十編』を読み進み、『城の崎にて』まで読んだ。温泉地に長い逗留をする筆者の心の中には、最近書いたという『范の犯罪』(これも同書に収録されていてすでに読んだ。サーカスのナイフ投げが的である奥さんを死なせてしまうのだがこれが故意か過失かという裁判の中で裁判官と被告・范の複雑な内面を著している)やら宿の部屋の縁から見える玄関の屋根の蜂や捕まえられたネズミだの湧水の中のイモリなどに自らの死のイメージを重ねる志賀先生。そもそもこの逗留というのが湯治目的なのであって、山手線にはねられた、と何気なく冒頭に書いてある。なるほど。…じゃねえよ、よく生きてたなあ。と僕も思うが当人もそう思っている。まあそんな風に全体に死のイメージのほのぼのと漂う作。この当時長編小説を推敲しており(『時任謙作』のようだ)、本書に収められたこの作はまさに森村誠一氏が書いていたように、作品世界の構築に疲れて合間に書かれたエッセイ、というようにも読めた。昨今のエッセイといえば、大体導入が奇抜であれ平凡であれ、どこかにおもしろエピソードが含まれていることを期待してしまうのだが、志賀先生のように心の動きを綿密に描きつつも特にオチもない(世間に毒されてるのだろう、そうとしか読めないのよ)文章を人に読ませるものとして発表するということが全くもって前時代的に感じられた。まあ前時代の作品なんだから別に褒めてもけなしてもいないのだけど。新聞のコラムに載っていても目を引くような内容とは思えないのだが、発表当時はどのように受け止められたのか。またこの作が生まれてのちの他人の作品にどう影響したのか。そういうことって、美術品や学説の変化のようなものの遍歴を辿るほどには知らしめられても調べられてもいないのかもしれない。多くの言葉で書かれた「文章」というものであっても、そこに描かれた内容の受け止められ方は時代を経るにつれあっという間に色褪せる。それを書いた側には、多くの場合、同時代の読者を読み手と想像して書いているだろう。だから書き手と読み手の間には極めて多くの「暗黙の了解」事がある。書かれた文章の意味は、それらの事前情報を既知として書かれているわけだから、論文などのように過去の説を簡単にレビューした後に自らの何が新規でどう読むべきかなどを明記することの殆ど無い小説やエッセイその他文芸の多くは後世の読者に真意を伝え得ない。書かれたる文章は、情報を伝えることを第一義とする文字記号で書かれてはいるのに、その情報量ほどには多くのことを語りはしない、ということなのだろう。これを極論するなら、文筆を作業することも筋トレと大差無い。努力の甲斐は当人の汗と涙の途絶えた時以降極めて速やかにその表わすものを失う。もちろんそのことによって文筆や筋トレを無価値とすることは、誰にもできないのだ。