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けいりう堂日記

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2024-10-01 [長年日記]

_ [読書] 『日本のカモメ 識別図鑑』氏原巨雄・氏原道昭、誠文堂新光社、2019。

カモメを巡る旅の途中です。この本見ててカモメの種類の多さに、とても識別なんて無理だなあと嘆息してる。せめてカモメとそうでない鳥の区別ができるようにはなりたいが、それすら難しい気がしてる。こんな僕のために先人は良き言葉を残してくれた。「かもめはかもめ」。


2024-10-04 [長年日記]

_ 「死ぬ準備」と称してあまりためにならず捗りもしない書付けばかりが増えていく。先日上野先生の"在宅ひとり死"の本を読んだのち、認知症関連の本を3冊くらい読んでいるのだが、症例の中には自分の実体験に似ているものがいくつもある。このことからは、自分も認知症なのだと思うこともできるし、認知症とそうでないものの間には連続性があるのだと考えることもできる。立って2歩歩くと何のために立ち上がったのか忘れているとか、ふと何処かに置いたものが次の瞬間にはそこに見つけられなくなるとか、必要と思ったものを買ったら家にはすでにあった、なんてことは日常茶飯事なのである。今どこかで診察を受けたら自分も認知症とされるのかもしれない。でも問題はそんな病名をもらうかどうかではなく、今の自分には何ができて何ができないかを把握することなのだろう。折しももう2学期が始まったので、また大学の通信課題を提出して面接授業も受けて試験に備えるしかないのである。覚えの悪くなる一方の頭で何とかやっていくしかない。あるもので何とかするしかないのだ。

_ 検証:シーラEのアレは布か?巨乳か?

シーラE  読んだ本の供養中。ふと気になったことをありのままに書くぜ!『恥知らずのパープルヘイズ』の挿絵のシーラEは、単にダブダブの服を着てるだけなのか?それとも超爆乳なのか?夏目房之介さんの手法を真似て、模写すれば描いた人の意図が分かるかもしれない。→結局二つの説のどちらが正しいかはわからなかった。しかし、荒木先生がハミ尻をちゃんと描いていることがわかったので収穫はあった。左の太ももが長すぎるが、ありのまま描いたものを貼るぜ!

2024-10-06 [長年日記]

_ 涼しくなったのでカレーを作った。これでしばらくはカレーが続く。朝からカレー。東大生って3食カレー食べるんだったよね。放大生はカレーうどんやカレーそばも食べるのだ。今日の昼はつけカレーそばとかどうだろうか。クソ不味かったらまた報告します。因みに今日のカレーはS&B赤缶カレーという名のカレールーにスパイス数種追加。赤缶カレールー、ちょっと酸味が強い。作ったばかりなのにもう腐ったかな。ないか、ハハ。でも粗熱取れたら早めに冷蔵しよう。

_ [特撮] 「爆上戦隊ブンブンジャー」バクアゲ32

懐かしのトッキュウジャー登場。そういえばハーモニカ吹いて死に場所求めてる奴いたなあ。そしてラスト、トッキュウ1号の中の人の後ろ姿。ああやっぱり後ろ姿だけだよなあ…と思いきや、まさかの志尊淳登場!、他のキャストとの絡みこそなかったが大サービスだな。さてお昼。

_ [食事] カレー(つけ)そば

カレー(つけ)そば  というわけで昼飯は予言通りカレー(つけ)そばにしてみた。写真撮っても単にカレーとそばが並んでるだけにしか見えないが、一応和風だしで多少カレーを伸ばしている。その方がそばには多分合うだろうと思ったまでだ。まあほどんどそばにカレーつけて食べただけではある。クソまずくは無かった。そばの締めはやはり蕎麦湯でカレーを多少薄めて飲んだ。クソまずくは無かった。結論。カレーっておいしい。

_ 今気づいたが、こんなおっさんのクソ詰まんねえ日記のカウントが100万超えてるとかありえないなあ。リロードするたびにカウント増えるみたいだし、きっと自分以外の訪問者はほぼいないに違いない。そう思っとこう。


2024-10-08 [長年日記]

_ 途端に寒くなった。それでもジム行ってヨガしてくれば汗をかく。しかし現在我がジムではちょっとした問題が起きていて浴槽が使えないのだった。それで無くともマシンはギジギシ言ってるしエネルギーコスト調整費を取ってる割には誰もいないスタジオにライトもエアコンも目一杯オンだったりしてるし。あーあ。もっと良いとこ無いのかなー。

_ [漫画] 『あつまれ!ふしぎ研究部』20(完結)、安部真弘、秋田書店、2024。

とうとう終わってしまいました。ことね先輩も卒業しました。そして前巻のバレンタインに対する大祐くんの答えは。。。終わってしまったものは仕方無い。早くアニメ化して。そして安部さんの新連載早く始めて。というか既に準備が始まっていて3話目を用意してるとか。だから気に入ったでゲソ!


2024-10-11 [長年日記]

_ [文具] 方眼ノート。

国誉という輝かしい言葉にちなむ文具メーカーの方眼ノートを愛用している。A4版のそれはいくつかのメーカーから出ている同種のものと比べてインクの馴染みが少ないという勝手なテストを行なった上で選択した。無表情な黒いデザインに、これまた勝手にデザインしたラベルを貼り付けてカスタマイズして、何か新しい興味が湧く度に「〇〇ノート」「××日記」「△△の書」「□□大作戦」などと勝手な名前をつけてともかく数ページ何かを書き始める。それらは旅の始まりのようなものだが、客死よろしく途絶して葬られないままになっているものも多々ある。ある日書きかけのページは取り除かれて、自作のラベルを剥がして新たなラベルを貼り付けられて「⭐︎⭐︎ふたたび」みたいな新たなタイトルをつけてそこから別の旅が始まるのである。
そのノートのストックがなくなったのでまた5冊ほど買っておこうと思ったら、Amazonに在庫が無い。倍くらいの値段でマーケットプレイスで売っているものを買うよりもこの機会にまた別のメーカーのものを試しに使ってみることにしたのだが、解せぬ。これは生産中止になったかと、その国誉(この『国』は日本国ではなく創業者の出身地・越中国とのこと)のホームページを調べる。紙の重量が、ノートに表示されているJIS規格に、2015年来準拠していなかった、ということで生産中止なのだそうだ。1人のユーザー(ヘビーユーザーと自称して差し支えないだろう)としては長年の信頼を裏切られた気分です…とは、しかしながら何故か全く感じないのだった。ただ、良い物という実感を確かめつつ愛用していたものが手に入らないということだけが残念、というか不便である。僕には2番目に良いモノを探すことや、これを機会に少し高級で普段使いの憚られる"ツバメノート"の同種のものを買って一時的に贅沢気分にひたることしかできない。「としかできない」って書いてるが、やれること結構あるなあ。まあそういうことで、不適合が早く解消されることを望む。


2024-10-12 [長年日記]

_ [読書] 『小僧の神様 他十篇』志賀直哉作、岩波書店、1928(岩波文庫 緑 46−2)

先日、2015年頃に読んだ森村誠一さんの『60歳で小説家になる』の"供養"をしていたら、志賀先生の『城の崎にて』をエッセイの好例として挙げていたので読むことにした。森村さんは、小説を書くためには作品世界を構築せねばならないから疲れる。疲れたら経験をほとんどそのまま描くことのできるエッセイを書けば良い、という論調でこの作品を紹介したのであった。そんな未来が来るかどうかは兎も角としても、幾つになったとて将来というものはあり、可能性は多いほど良い。それでなくてもそのうち今までできていたことがどんどんできなくなっていくのだ。脳も委縮するかもしれないしサルコペニアで満足に歩くこともできなくなるかもしれない。アクシデントが起きなかったとしても、衰えというものはやがてやって来る。証明は難しいが永遠に生きた人はいないということは、神の存在に賭けるより割りが良いはずだ。
 例によってまた自分の終末を想起せしめるようなことを書いてしまったが、実のところ自分は元気一杯で、子供時代にはできなかった前後開脚も左右開脚も三点倒立もできるようになったし、ろくにグリスアップもしないジムのキシむマシンのお陰か20年前よりも胸筋は付いている。おそらく腹筋もついているはずなのだが、未だに割れたところを見たことが無い。つい書いてしまったがそんな自慢はどうでも良い。その『城の崎にて』を収録した掲題の本が今日届いた。志賀直哉と言えば『小僧の神様』というくらい有名な話が冒頭に載っているのだが、そう言えばこの話がどんなものかも僕は知らずに生きてきた。知らなくとも生きてけるからだろうと思うが、それでも耳にしたことぐらいはあるこのお話は一体どういうものなのか。そもそもこのタイトルである。この「小僧の神様」という言葉の中における「神」が一体何を意味しているのかは長年の謎ではあった。可能性として「小僧の神様」の意味することはおよそ以下のようになるであろう:

1) 小僧が信奉する神のこと。(以下「」内は同様の使われ方をする『神』の例)「─は細部に宿りたもう」

2) 小僧にとって神に等しい存在のこと。「お客様は─様です」

3) 小僧の姿をした神のこと。「男─・女─・犬─」

4) 小僧というすべての存在にとって神のように優れ尊敬されるものの比喩。「─待ち」

5) 小僧界(そんな界どこにあるのだろうか)を司る神。「海─ポセイドン・冥府の─ハデス」

6) 小僧界に存在する神。「国津─・天津─」

7) あたかも神のように振舞う小僧。「泣くな野球の─様も たまにゃ三振エラーもする」


  それだけではない。「小僧」と言う言葉を取っても

a) 子供の働き手「定吉は日本香堂の─さん」

b) a)のうち特に寺院の小僧。小坊主。「門前の─習わぬ経を読む」

c) 子供を親しみを込めて呼ぶ呼び方。「朗らかな朗らかな野球─」

d) 子供を侮蔑的に呼ぶ表現。こわっぱ。「この洟垂れ─!」

e) 比較的小さなものや部位に対する呼び名。「膝─、 高師─(湿地の葦や稲類の根部に繁殖した鉄バクテリアに由来する褐鉄鋼の塊。天然記念物に指定されているものもある。)」

注:「小憎」は誤用、あるいは意図的な誤用。「爆弾小憎ダイナマイト・キッド」← 単に誤植だったのかもしれないが、テレビのスーパーか東スポあたりの記事にこう書かれていたことがあったような記憶がうっすらとある。

_ という訳で昼休みにワクワクしながらその物語を読んだ。今解き明かされる積年の謎!まあ結論としては2)a)が正解だったかなと。それにしてもこの物語の読後感よ。これが「小説の神様」と呼ばれた巨匠の代表作なのだとはとても信じられなかった。時代背景が違い過ぎるのか、僕の感性に難があるのか。しかもこれ、今もって文庫化されるくらい読み継がれているのだ。あ、でも今ひらめいたぞ。お寿司屋さんのチェーンの「小僧寿し」って、この話を下敷きにしてるのではないのか?ネタバレと言うにはあまりにも有名すぎる話だけど、ここに登場する小僧さんはお寿司を食べたいのだがお金がたりなくて悲しい思いをする。そんな小僧さんでも気楽に食べられるのが「小僧寿し」なのではないのだろうか!?←書いた後で小僧寿しのホームページを見たらその通りのことが書いてあった。えっへん!でも待てよ、「『小僧の神様』に登場する秤(はかり)屋の小僧、仙吉が、高価なお寿司を食べたくても食べられない人のため、寿司屋になろうという気持ちを抱きます。」とか書いてあるが、志賀直哉はそんなことは書いていないようだぞ。まあ小僧寿しの創業者さんにはそう読めたのだと思う。そして仙吉の気高い思いと我々の思いは同じである、などと熱く語っているのだ。彼にとってはもう志賀先生がそう書いたとしか信じることができないのだろう。いや、もう一度読み返したらどこかにそんなことが書いてあるのかもしれない。でも今日はもういいや。結局積年の謎が解けた代わりに、なぜ志賀先生がこんな文章を残そうと思ったのか、そしてそれがなぜありがたがられるのか、などといった別の謎が生まれた。謎なんてそんな風に増え続けて限界効用のように低減などしないのだ。そしてこれだけは学んだ。どんなエピソードも物語になる。だから恐れずに書くべきである、と。
 こんなに立て続けに「小僧」とか「神」とか書いたの、人生初だと思う。そして『城の崎まで』はまだ読んでません。

_ [特撮] 『ウルトラマンアーク』「過去の瞬き」、テレビ東京、2024/10/12.

というわけでウルトラマンアークを追う刺客・スイードという役で黒づくめの佐藤江梨子様がご降臨なさったのであった。ノリノリの悪役w 巨大な姿で映画のスクリーンに映っているところから客席に座っているアークとユウマ(このシチュエーションもちょっとセブンとメトロン星人の対峙を想起せしめるシュールな風景だったのだが)に向かってわしづかまんと手を伸ばしてくるところが怖くてなかなか良い。円谷プロの特撮は健在だ。シュウ君を襲って情報を(脳から直接)カツアゲした挙句欲しい情報が無くて「使えないヤツだ」と吐き捨てる。なんという良いオバショタなのかと。どんな男が相手でもショタを〇しているようにしか見えないこと咬膣院魔夢の如し(←わからなくてよい)。次回は是非ともサトエリ様自身が巨大化してアークをぼこぼこにしてほしいものだなあと。またしても邪眼で子供番組を見てしまいました。


2024-10-13 [長年日記]

_ [特撮] 仮面ライダーガヴ

最近の仮面ライダーはお菓子で変身する訳で。ショッカーに改造された超クラくて男臭いライダーから思えば遠くへ来たもんだ。というか今日も今日とてグロッタ・ストマックというお姉さん(千歳まち)が仮面ライダーヴァレンこと辛木田絆斗(日野友輔)をいたぶるというオネショタ・テイストを味わいながら邪眼で視聴しておりました。キャリアのある女優が敵役を好演しヒーロー側が若いイケメンであるという昨今の流れからこうなることは自明であった…ということが今日は良く理解できた。きっとこれからもこういう傾向が強まっていくのだよ。そういえばガッチャードのクロトーにいたぶられるガッチャードやスパナというのもそういう図式と言えば言える。そういう邪眼を持って過去作品を鑑賞するとまた違った扉が開くかもしれない。嬉しいなあw


2024-10-14 [長年日記]

_ 久しぶりに、家から二番目に近い銭湯へ。ここの良いところは遅くまでやっていることと、露天の湯が日替わりなことと、弱めの電気風呂が肩をほぐすのに良いことと、水風呂があることと、さらにすぐ側をこれまた遅くまで運行しているバスが通っているので帰宅も楽、ということで何だかいいことづくめのように書いたのだが、悪いこともある。せっかく一杯引っ掛けられる食堂があるというのに常連の"某県民の集い"の如きがいつも催されており(何の事は無い知り合い同士で呑んで騒いでいるだけなのだが)なかなかに落ち着いて湯上がりを味わうわけにもいかないのである。彼らは彼らの地元の強い蒸留酒を煽ってはその県民性とも言うべき明るさをもって騒ぎ立てているのが常である。今宵もそのようであった。店側は許容するより無い。僕の如きいつ来るとも知れない1人客に配慮するよりは常日頃利用して金を落としていく常連の良いようにさせておく方がよほど経済原理に則っている。今宵もかくして逃げる様に店を出でてコンビニで缶ビールや僅かなつまみを仕入れてバスで帰宅。『無能の鷹』少し見つつ晩酌と相なったのである。


2024-10-16 [長年日記]

_ ジムのお風呂がやっと再開。やはり汗流した後はさらに汗流してさっぱりせねばな。今日は実は終業後筋トレするやせざるやでダラダラしてたのだが、行きがけに図書館に寄って増山元三郎先生がサリドマイド禍の薬害であることを統計的に示したというあたりの記事の載っているであろう本を借りたくもあったので、何とか出かけた。筋トレ中はものすごく汗が出た。これは更年期障害なんじゃないのか?何でも人によっては80歳くらいまで症状が出るらしい。所謂「あがる」という事が無いから長く続くんだろうか。まあ何とかやり遂げた。きっと明日は嬉しい筋肉痛であろう。ときどきジムで遭遇する、マシントレーニングにものすごく時間をかける御仁がいて、その御仁とちょうど入れ替えになったのでトレーニング自体は概ねスムーズであった。その御仁には,今日「ネチさん」という名前をつけてあげた。ネチッこいいトレーニングを好むから。もちろんコッソリと。ネチさんにはよく一緒に行動している少しお若い御仁がいて、帰り掛けにはその御仁ともすれ違った。彼にも今日「アマン」という呼び名をつけてあげた。無論コッソリとだ。ネチさんとネチさんのアマン、である。まあでも彼らに関するエピソードは今日書いた以上には多分生まれないからこのことはここまで。他にも「てんつくさん」とか「山中先生」(単純に似てるだけ。所作も紳士的である)とか「マドンナ」とか愉快なジム仲間がたくさんいる。無論彼らもこちらもお互いに仲間だとは多分思ってはいない。以前書いた金小僧には度々遭遇する。遭遇すると何だか金持ちになれそうな気分がして良い。

_ 追記。増山先生編集の『サリドマイド』、予想以上に面白い。薬と発症数の相関を、如何に統計によって捻じ曲げようとしたか、そしてそのお粗末さを指摘する増山先生。さらには、今も読み継がれる『統計でウソをつく方法』の翻訳者も一枚噛んで、そのウソをつく方法を実践するのに一枚噛んでるのでは、とか。買ってじっくり調べ読みすることに決めました。どんなに魔窟がアウフヘーベンされたとて本だけは全然減らない。知的人生を諦めない限りは!けいさん家の呪いですな。


2024-10-18 [長年日記]

_ というわけで岩波文庫『小僧の神様他十編』を読み進み、『城の崎にて』まで読んだ。温泉地に長い逗留をする筆者の心の中には、最近書いたという『范の犯罪』(これも同書に収録されていてすでに読んだ。サーカスのナイフ投げが的である奥さんを死なせてしまうのだがこれが故意か過失かという裁判の中で裁判官と被告・范の複雑な内面を著している)やら宿の部屋の縁から見える玄関の屋根の蜂や捕まえられたネズミだの湧水の中のイモリなどに自らの死のイメージを重ねる志賀先生。そもそもこの逗留というのが湯治目的なのであって、山手線にはねられた、と何気なく冒頭に書いてある。なるほど。…じゃねえよ、よく生きてたなあ。と僕も思うが当人もそう思っている。まあそんな風に全体に死のイメージのほのぼのと漂う作。この当時長編小説を推敲しており(『時任謙作』のようだ)、本書に収められたこの作はまさに森村誠一氏が書いていたように、作品世界の構築に疲れて合間に書かれたエッセイ、というようにも読めた。昨今のエッセイといえば、大体導入が奇抜であれ平凡であれ、どこかにおもしろエピソードが含まれていることを期待してしまうのだが、志賀先生のように心の動きを綿密に描きつつも特にオチもない(世間に毒されてるのだろう、そうとしか読めないのよ)文章を人に読ませるものとして発表するということが全くもって前時代的に感じられた。まあ前時代の作品なんだから別に褒めてもけなしてもいないのだけど。新聞のコラムに載っていても目を引くような内容とは思えないのだが、発表当時はどのように受け止められたのか。またこの作が生まれてのちの他人の作品にどう影響したのか。そういうことって、美術品や学説の変化のようなものの遍歴を辿るほどには知らしめられても調べられてもいないのかもしれない。多くの言葉で書かれた「文章」というものであっても、そこに描かれた内容の受け止められ方は時代を経るにつれあっという間に色褪せる。それを書いた側には、多くの場合、同時代の読者を読み手と想像して書いているだろう。だから書き手と読み手の間には極めて多くの「暗黙の了解」事がある。書かれた文章の意味は、それらの事前情報を既知として書かれているわけだから、論文などのように過去の説を簡単にレビューした後に自らの何が新規でどう読むべきかなどを明記することの殆ど無い小説やエッセイその他文芸の多くは後世の読者に真意を伝え得ない。書かれたる文章は、情報を伝えることを第一義とする文字記号で書かれてはいるのに、その情報量ほどには多くのことを語りはしない、ということなのだろう。これを極論するなら、文筆を作業することも筋トレと大差無い。努力の甲斐は当人の汗と涙の途絶えた時以降極めて速やかにその表わすものを失う。もちろんそのことによって文筆や筋トレを無価値とすることは、誰にもできないのだ。


2024-10-19 [長年日記]

_ 遅く起きた土曜。『ワルイコあつまれ』の慎吾ママの部屋に出てきた茶々(北川景子)の録画を視てるところなのだが、この人本物の茶々だなあなんて納得してる。火縄銃持って「ダーン!」ww 役の抜けないうちにこんな風に再利用して番組を作るというのはメソッドとしては良さそうにも思われる。
 それはともかく。今まで何となく理解してた工程能力指数のことがちょっと気になってきたので、さまざまな本にどう書かれているかを調べ始めたのだった。ちなみにこの尺度は日本産であるらしい。比較的近年の和書『工程能力指数』(永田・棟近著、日本規格協会、2011)の冒頭に、Kotz & Loveraceの教科書(Arnord, 1998)にそんなことが書いてると紹介してある。これは初耳!こんな指標はいかにも合理性を追求し続けるアメリカ原産と思い込んでいたのだが。誕生は70年代のようであり、このころの日本産業界ではQCサークルと言う草の根運動が盛んであり、統計的品質管理を日本にもたらしたのは1950年のデミング先生の講演とされる。この講演は本にもなっているとのことなのだが、今日本のAmazonで「デミング」を調べると自動的に「ハミング」と変換されて洗剤ばかりが出てきてしまうのである。それはともかく。改めてデミング先生について調べなおすと、以下のことが分かった:
(1)実は日本では神様扱いされていたデミング先生は1980年代に至るまで本国アメリカでは無名であった。それが注目されるきっかけは1980年にNBCドキュメンタリー「日本にできて我々になぜできないのか?」で取り上げられたからだと言われている。僕がこの件に興味を持ったのはかれこれ10年近く前になるのだが、当時この映像を見るのは難しかったと思う。現在、Deming InstituteによってYoutubeにアップされている。76分ぐらいあるようだが時間を見つけてみることにしたい。
(2)1982年に出版されたデミング先生の本は1986年に"Out of Crysis"と改題されて出版されている。邦訳は無いと思ってこれも10年ほど前に洋書を求めていて例に漏れず"本棚の肥やし"(そんなものがあるのだろうか??)になっていたが、2022年に邦訳が出版されたようだ。そのイベントが起こった時点よりも時が過ぎて未来になればなるほど、そのイベントに関連する情報にアクセスすることは容易になる。このパラドクスはしかしながらその情報を残そうとする人々のエネルギーなしには起こりえないことなのである。
そういった有用なことばかりを見出したわけではない。きっかけとなった永田・棟近共著の本は"JSQR(日本品質管理学会)選書"と名づけられた日本規格協会の出版のシリーズである。そのキャッチフレーズが「成熟経済社会のいまこそ魅せる日本のゆるぎない質力、質魂!」である。「質力」と「質魂」には傍点が付されている。どちらもどう読むのが正解なのか良くわからない。そんな言葉はたぶん無いのだが、こんな言葉を作ってまで、かつての品質を丁寧に育てた頃の遺産を後世に伝えようとする努力には意義があると思う。しかし安易に「魂」とかいうどうとでもとらえられるような言葉を使うセンスはちょっとどうなのかな、と思えなくもない。こ・じ・ん・の・か・ん・そ・う・で・す。


2024-10-20 [長年日記]

_ [特撮] ウルトラマンアーク『さまよえる未来』

というわけで、さすがにスイード(佐藤江梨子)が巨大化してウルトラマンアークをボコボコにするということは無かったのだが、それでも生身で相手になってしまう、という素晴らしさ。アーク、というよりもユウマと異星人ルティオンが合体してウルトラマンアークとなった、と言うことのようなのだが、そのルティオンの、すなわちスイードの銀河はこの後どうなってしまうのか?そして地球の未来もこれで安泰、と言うことではないらしい。いろいろ釈然とせぬまま来週は総集編。水谷果穂の写真集見たいなあ。サトエリのは何冊か持ってる。写真集見て俺の想像力を解き放つのだw


2024-10-21 [長年日記]

_ げつよーび。ずっとダルかった。「ダルい」という言葉は英語のdull(鈍い)から来てると思い込んでたけどなんか違ったみたいで、古語の「弛し(たゆし)」が語源なのだとか。しかしそんなダルさも消える。汗のように、呼吸のように。というわけでやっぱりヨーガが良かったのであった。


2024-10-23 [長年日記]

ケムール人をイメージしてみました  お弁当のおかず作ってる。タコのウィンナーからケムール人ができるのではと思ってやってみたのだが、手のところが大きく丸まってしまってまあ異星人っぽい感じにはなったかと。フライパンの油も何となく宇宙っぽいし。しかしケムール人は未来人であって異星人だったかどうか。まあ許せ。

2024-10-26 [長年日記]

_ 横浜に住んでいる。そして1人で飲み屋に行くことも度々ある。さらに決してベイスターズファンではない。このような人間には、とあるリスクが存在する。それは、「俺以外店にいる奴が全員ベイスターズ・ファン」という事態である。あまりの居辛さに俺もぎこちないし、何となくそれを察して俺以外の客もぎこちない。そういう稀有な体験を今日できた。『孤独のグルメ』のネタみたいな話だが真実だ。ベイスターズなんて関係無く焼鳥も納豆オムレツも酒も美味い店だからまた行くことと思う。頼むから主義主張にこだわらないで仲良くして。というかせめて石とか投げないで欲しい。投げられたことないけど。


2024-10-27 [長年日記]

_ 投票に行ってちょい買物をしただけで今日は他に外出せず。放送大学の受講は参加にも増して早いペースで、既に10回まで聴講。11回まで聴講したら関連の図書を読み漁ろうと思っている。漁るというほどには読み進められないだろうと思うが。自分の投票した候補は残念ながら接戦の末落選した。米大統領選はどうなるかなあ?


2024-10-30 [長年日記]

ウルトラ怪獣その2 こないだはケムール人をイメージしたので今回はバルタン星人。うまく行かんわ。、なので隣にスダール(イイダコ)を置いてみました。もっとうまくできるようになるのだろうか?続く。

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