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2013-03-23 [長年日記]
_ なんとなくネットでチッチョリーナのことを調べてた(というか動画を見てたんだが)。めちゃハードコアだったのでビビった。彼女がイタリアの国会議員になるというのは日本で言えば風間ゆみさん(←最近ちょっと気になる存在)が国会議員になるようなもんだ。まあでもなんとなく風間ゆみさんは奥ゆかしい感じもするからよほど周囲に押されたり強烈な問題意識に駆られない限りそんな可能性は無いような気もする。とりあえず私に必要なことはチッチョリーナの映像をさらに参照することくらいしかないじゃあないか。
_ ふぅ…じゃねえや、まちがえた。さて。久しぶりにというかいつものようにエッチなこと書いてるからもうちょっと書くかな。
AV女優の「演技」ということについて。AVがつかない場合でも女優に要求される演技というものにも様々なものがある。村上もとかの「龍」のわりと最初の方で、ヒロイン・田鶴ていが何人もの映画監督の作品に出演してそのたびに演技にとまどうあたりを読むとその辺の感じが良く分かる。溝口健二のように一切演技指導の様なものをしないで役者が悩みぬいた極限の表現をよしとする監督もいれば、役者は与えられた通りの演技を余計な自己主張を交えずに行なうべきとする小津安二郎のようなタイプもいる。最近亡くなられた若松孝二さんのそれは溝口健二のアプローチに近いもので、そういう極限状況で寺島しのぶは「キャタピラー」のなかで”五体不満足”で戦地から帰った夫が土間に転がってるのを見て「軍神さんはごーろごろー♪」なんて「いもむしごろごろ」の替え歌を歌い、ベルリン映画祭で銀熊賞を取るのである。キルビルの栗山千明はタランティーノが何やってもべた褒めするからあの素晴らしいゴーゴー夕張を体現することができた。
_ 一方、AV作品はその本領はやはりエッチなイベントにあるので(めんどうくさいことにこれが今ではもう単に性交のことを意味しないんである。性交は一切ありませんとか女性は一切脱ぎませんとかそういう断り書きがないと売れないようなジャンルの作品も多々ある)、その部分さえ丹念に描かれていればよいので女優に演技力は必要なく、そのイベントにおける女優の反応が良くて絵が煽情的であればそれでいい、という考えははわりあい常識的な解釈ではないかと思う。しかし、数々の作品と現実世界の虚実を照らし合わせてみるに、どうやらAV女優にはやはりすぐれた演技力が必要とされているのではないかと思い始めている。だがそれはまだ演技になる一段前のことであるのかもしれない。
演技の手始めは、まず観客の前に自分の姿をさらすことから始まる。これはたぶん異論の無いことだろう。ここですでに、演技者たるかそうでないかが大きく分かれる。作品世界でなくとも、壇上ですぐれた演技を披露すれば「あの人は大した役者だ」とか「○○節が絶好調だ」とか称賛されるわけである。それに似たことを裸でやるのがAV作品の役者なのである。だから、まず演技の第一歩として、カメラの前で露出できる(『脱げるか』と書いてもいいのだが、実際には脱がないSEXを売りにする作品もあれば、上手に脱げないのが初々しくて大変良いというコンセプトの作品も数多くあるのだから実にややこしい)、ということは演技の始まり、いわば「演技縁起」(←こういうこと言うのがまた文章をすごく読みにくくしてるのはわかってるさ。でも日記におやじギャグを書いちゃいけないなんて誰が言ったんだ?)というべきことである。間違ってはいけないのだが、ストーリー仕立てのAV作品の中で寺島しのぶみたいな演技をすることは普通は行なわれない。仮に、そちらが大変いい出来だったとしたら、本来のメインイベントのところで本来の楽しみ方ができなくなっちゃうから。だがそれでも両方楽しみたい!という方にも朗報はある。むしろ「失楽園」とか「ベロニカは死ぬことにした」とか普通の(?)映画作品にこそその両者のバランスが計算されて(旨く行ってるかどうかはさておき)提示されているので、ぜひともDVDを入手して一人で(あるいは夫婦で、恋人と二人で)見ることをお勧めしたい。
本当に言いたいのはそういうことではなかった。たとえばアロマ企画の作品にAV女優が登場するとする。この作品は必ずしも露出を控えているわけではないがテーマが淫語、すなわちみだらな言葉による聴覚的な刺激と女優の行為によるいくぶん屈折した性的嗜好を満たす作品であったとする。このときに女優の発する言葉が「スチュワーデス物語」の堀ちえみみたいだったら(例えが古すぎる、単に"棒読み"だと書けばいいのに)これを作品として成立させるためには特別の工夫が必要になる。堀ちえみ本人が登場して「わたしは愚図でのろまな亀だけど、あなたのカメはそれ以上に愚図でのろまね」的なことを言えばそれはそれで企画的にはいけそうな気もする。なんか書いてるとそんなに非現実的ではないような気がしてきた。こういうところがAV作品の懐の深さの様な気もするが間違ってる気もする。だんだん言いたいことがぼやけてきたけど、及川奈央も立花里子も風間ゆみも仮にAVという看板を外したとしてもすぐれた女優として在り得ることは確かであると思う。及川奈央はすでにそんな方面で活躍しているのだし、立花里子は惜しくも早くに引退してしまったが、明らかにウルトラ警備隊のコスチュームで頑張っている「戦闘美少女ローゼンクロイツ」の、ストーリー仕立ての部分の演技では無く、敵の暴力に屈して思わず吐く「くやしい…」の一言はこのような企画作品における最高に望ましい演技でなくてなんであろう。余談だがこの作品のメイキングのところの素のリコピンはすごく可愛くて、人柄の良さがうかがえる。風間ゆみは視聴作品が少なくてあまり語れるものが無いが、前記の立花里子(Sのメイド役)と共演した長いタイトルの作品における上流階級の変態マゾ夫人なぞは、両者の相性も良さそうでそのためもあってか、作品世界の表現を完成させるに不可欠な演技である。上品で高飛車な奥様とドロドロに乱れる淫女が両立することを”言葉”でなく”心”で理解させる(最近ジョジョのこのセリフが気に入ってる)。
_ AV作品にはAV作品を完成させるための演技が必要なのである。たぶん現実のエッチな行為においてもそれはエッチな行為の完成のためには重要なことなのだと思う。感じてもいないのに感じる感じると叫ぶ演技をしろということではないし、絶頂に達していないのにイクと叫べばよいということではない。むしろ「感じる」と口にすることで官能が深まりそれが本当に快感を引き出すという代々木忠が身を削って明らかにしたその境地をこそ目指すべきなのである。代々木忠は一切の演技を否定する立場からさまざまなSEXドキュメントをものしたが、それらが明らかにした数々のことがら、男の中にも女の快楽があること、また逆もしかりなこと、プライドを捨てることでより深いエクスタシーを目指せること、目を合わせ感覚に素直になり相手を互いに思いやることからチャネリングと言う一段高い共感の状態に移行できることなど。これらを素の自分とは違う次元で体現できるなら、それはAV作品における最高の演技と言えるだろう。
_ たぶん、90年代と2000年代とではAVにおける演技、あるいはAVに求められるものが大きく違っているものと思う。できることならそれを系統的に調べてみたいのだが、90年代の作品はおおむねVHSで作られており、入手困難とは言わないまでも、重要な作品は1作につき4000円程度かそれ以上であることが痛い。たとえば、いまこの時代に改めてみる豊丸の作品群、という切り口を実践したいと思ってもこれにかけられるだけの潤沢な資金が無いし、入手困難な作品も多いのである。
_ ちなみに先の立花里子と風間ゆみの共演作の正確なタイトルはこうだ:「巨乳淫乱わがまま変態マゾ奥様と、召抱えられた丁寧淫語で性感御奉仕サディストメイド」敏感な人ならタイトル読んだだけで、ふぅ… というところだな。