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2013-03-31 [長年日記]
_ [特撮] 獣電戦隊キョウリュウジャー。
ピンクは惜しげなく太もも露出してるのにそこがコンプレックスだったことが今朝判明。きっと"見られてきれいになる"作戦だ。来週はノッサン(←こんな呼ばれ方する戦隊ヒーローってw)大活躍。オヤジギャグ炸裂で笑い死にさせられたい。
_ フリーライダーを憎む、ということは何度か日記には書いてきている。そういう性格がいつ作られたのかわからないが、子供の頃にはすでにあったようで、自分が自分なりに考えたり調べたりしたことを惜しげもなく人に分け与えるような子供ではなかったように思う。考える能力が無い人のことが理解できなかったのだろうか、彼らは知識にただ乗りしようとしているように思えて仕方が無かった。今もそうだ。これはそんなに簡単な問題ではない。知識を与える立場にある場合に、その知識に関してどのくらいの価値を賦与しているかはなかなか妥当性を問うことができない。その知識はより高い知性から与えられたものである場合も多いからだ。
知識にせよ物質的な充足にせよ、それらを持ち自由にできるということは全能感をもたらす。特撮番組の大好きな自分にはその全能感がどんな感情をもたらすのか良く分かっているつもりだ。大人になってもそんな感情を楽しむ機会は多々あるものだ。自らのパフォーマンスが旨く行ったとき、ゲームにのめり込んでその世界のルール上の勝利を勝ち取った時、セックスで相手を満足させるとき、旨い食事を提供するとき、そしてエウレカと叫ぶ瞬間。。。何も持たないことを勧めるある種の思想は、その全能感の危ういことを警告しているのだと思う。また、警告などはなから目に入っていないものもたくさんいる。全能感のなすがままに行なって失敗することの少ない人というのは確かに存在している。自分はそういうのではなくて、かならずあとに後悔が続く。そんな苦い経験を積み重ねて、自分の才能に懐疑的になるということもまた危うい。才能を測るには数多くの軸がありながら、それぞれの軸上の位置はちゃんと定義できるものだと思う。その軸のどこに自分がいるのか、そこだけをわきまえて精進していきたいものだと思う。そんなときに障害になるのは、軸上の位置関係を"相対化"する者の存在だ。自分のいる位置を平均的な位置であるかのように言った上で「あなたの言うことはわかりにくい」と言われれば、どこまで付き合ってやれば満足するのかと絶望的になることがある。だがこの絶望感がまた一つの全能感の裏返しで無いと言えようか。どんなに苦労して得た知識であってもヒトは共有しあうべきなのだろうか?情報の非対称性の弊害を語るものが情報の共有を惜しんではならないのだろうか?情報の世界にも"民主化"の波が広がるのであれば、その際かならずあらわれる"フリーライダー"を制するにはどのような刑罰がふさわしいというのだろうか?ことこの件に関しては誰もが多かれ少なかれフリーライダーであり、その軽重だけを問題にすることには意味があるのだろうか?知識を持ちながら与えようとしないことは罪だろうか。ネットの世界も良く見ればそんな生存戦略でいっぱいだ。もし自分が今学生だったなら(実は学生だけど)、ネットを使わずに宿題をこなすことはできないだろうと思う。インターネットは本当に大きな発明だ。頭を外科的な手段で直接ネットにつないでる人もすでにいるのではないかと思う。そうするとその人は全人類の知識を有するという全能感に打ちふるえているだろうか?誰かがそうしはじめたら、きっと誰もが争って同じことをするだろう。そういう世界における唯一の美徳は、こんな弁解じみた駄文ではなくてもっと良質なコンテンツをネットにアップロードする行為なのだろうと思う。いや、神になるとかいうことじゃなくて。
_ [特撮] 仮面ライダーウィザード
おもわずタイトルを「仮面ライダービースト」と書きかけてしまった。ビーストは今回、内なるキマイラと対話する。以前ウィザードが内なるドラゴンと対話したときにも思ったことだが、こういう内省的な描写は好きなんだよね、自分が内省的だから。自分の中にドラゴンがいたりキマイラがいたりすると考えてみると、人生の理不尽さや自らの愚かな行為に得心がいく。人生上の不可避なイベントに何故を問うことに対する「神話的回答」というべきものだ。特撮ヒーローの作品には神話的構造で見ることのできるものが多い。一方全く異なる視点があり、「腐女子的回答」というべきものもまた存在する。畏るべし…。
_ なんかうちの屋根裏か軒下のあたりでゴソゴソしてる奴がいる。きっとスズメだ。うちに近づいたらビーストの餌食になるというのに。スズメにはネコの匂いがわからないのだろうか。そんなことだからある日襲われてドクロとなってまうのだ。朝起きたら枕元にスズメのドクロ…ああそれにしてもゴソゴソとうるさい。
_ 午後、図書館へ。予約してた本を受け取ろうとしたら、所蔵館であるにかかわらずまた何日も前に申し込んだにもかかわらずまだ準備ができてないとのこと。調べてもらったら、なんと修繕中ということでしばし待たされる。しかし受け取ろうとするとまだほつれが残っていたため、急きょのり付けしてもらいゴムで固定して「2時間たってから開いてください」という限定付きでやっと借り出すことができた。実はこの本、和書が絶版らしく古書でも状態の良いものを入手するのはちょっと難しい。一方原書のペーパーバックは安価なので、内容を日本語でちょっと読んでみて購入の判断材料にしようとしたのであった。この本は、技術的特異点に関する本、というかそれを言いだしたカーツワイルその人の著作である。
図書館の坂道を下りていき、関内へ、そして中華街へ。久しぶりに歩いた野毛は、なんだか20年ほど前のいかがわしさを取り戻しつつあるように思えた。横浜スタジアムの脇を通って行けば関内駅から目的の中華街の輸入食品店へは結構近いことが分かった。買ったのはまた塩くるみとサンザシ。今日は寒い。風邪引きそう。
_ [テレビ・ラジオ] NHKスペシャル
佐村河内守と書いて"さむらごうちまもる"。"さむらかわちのかみ"ではない。こんな名前が存在することがまず驚きだったが、重低音のノイズが文字通り四六時中鳴り響く中絶対音感だけを頼りに交響曲を書く人。ちょっと別のことをしようとしてたのだがどうもテレビから目が離せない。
_ テレビで思い出したのだが、今日エクセルのアップグレード版を買いにヨドバシカメラに行ったついでに3Dテレビを見てきたのだが、どうも腑に落ちない。値段の高さはともかくとして、まず東芝のグラスレス3Dは、デモ用のコンテンツがよくなかったのかもしれないが、2.3次元くらいにしか見えず、3D化によって情報量が増えた感じがあまりせず、3次元化を補う画像処理(超解像と呼んでいる)の結果が自然画像に対して違和感を生んでいるように見えた。一方、どういうことかLGを大売出ししているらしくそのグラスつき3Dを見てきた。確かに奥行から手前への立体感が強調されていたが、これはどうもリアルな3Dではないな、と思った。パースを意図的に狂わせた「デカスロン」のころの山田芳裕(漫画)を思わせるものだったからだ。なお違和感があるのは、立体なのにそれがテレビの枠にはめられているということだった。いずれの方式にせよ3D像は現実のそれを模するように再構築されているようには見えなかった。やはりこの技術は今のままでは普及しない。コンテンツも何十年か前の飛び出す映画とどれほど違うともつかないように思われるし。見て改めて思ったのは、この技術に私が期待してたのは、もしや計測可能な奥行き方向の情報だったのではないか、ということだった。つまり、私は二次元ディスプレイ上に表現された3D映像を求めてはいなかったようだ。ホログラフィ技術がリアルタイム性を獲得するか、あるいは三次元ディスプレイが実用化されないうちは、3Dテレビに対する消費の心配をする必要はなさそうな気がする。まあしかし技術の進歩は予測もつかないから、もしかしたら…。
_ 6月の横浜能楽堂の舞台は能「熊野(ゆや)」と狂言「酢薑(すはじかみ)」とのこと。「熊野」の故郷である駿河の国・天竜川の東にある池田の宿は、姫街道を歩いた時に通ったことがある。冬だったが、熊野ゆかりの藤の木は見事で、花の季節に一度音連れたいものだと思った様な気がする。6月の予定など今からわからないから予約を入れるのに躊躇しているのだが、能の映像資料は特別な日のNHKの放送を録画する以外にはあまりたやすく入手できるものではなさそうなので、このような催しをちょいちょい見に行くのが最も良いのだと思う。「道成寺」のDVDがたやすく入手できるというのはむしろ特例的なことだったようだ。
_ [テレビ・ラジオ] みうらじゅんと山田五郎の親爺同志
第13回の録画見てたら「親爺苑」というコーナーで「年寄りの冷や水」という格言にみうら・山田風解釈をつけるというのがあった。これは金冷法のことであるという解釈がついた。さすがだ!年寄りの冷や水は、やったほうがいいということだったのである。俺も先日のお彼岸に一つ年を取ったのでお風呂でコ○○ンを握る回数を一つ増やしたばかりだが、これからは水冷式もちょっと試してみる。まあどんなに鍛錬したところで大した用途は無い。ちなみに最近のみうらじゅんさんは政治家の片山さつきさんとよく間違われるって言ってたので片山さつきさんの画像をネットで見てみたらコーヒー吹いた。