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2022-09-10 [長年日記]
_ 涼しい土曜の朝。かくも爽やかというのに朝から天野哲夫『女主人の鞍(ドミナのサドル)』をぱらぱらと読む始末。『家畜人ヤプー』の著者の一人とされるこの人の体験には興味がある。読んでいるのはまだ本の最初の方で、屑屋を装って自身のM性を存分に発揮できる相手を探し、挙句そのような夫婦と出会って…というくだり。夫婦自体はお題目を唱えることを教義に含むとある宗教に帰依する他にはあまり特別なことはない。夫には覗き見嗜好、というか現代ならば寝取られマゾ気質というべき趣味があるが、これも度を過ぎたもののように見えない。ここに収められた物語は1988年頃からスナイパー誌に掲載されたもので、私の大学時代に重なっている訳だが、氏がここに書かれた体験を得たのはそれより以前であることしか今のところは分からない。何がそんなに気になるかというと、それは文中にたびたび現れる体臭や、様々な体液の匂いに関する描写なのである。昭和の頃を舞台とするこの本にはある種懐かしい体臭が充満している。昭和の人々は令和の現代人よりもずっと濃厚にその体臭を放っていたのであり、それが更に度を強めた秘所の臭気は性行為とは切り離せないものであったことだろう。それが性感を高めるのに一役買っていたことは言うまでもない。50年ほど経ったくらいでこれだけの変化が起こるのだ。まして江戸の人は、中世の人は、古代の人は、と遡れば遡るほどに、ヒトは濃厚な体臭を放っていたことだろう。大河ドラマや歴史小説を味わう時、登場人物の体臭のことはいつも頭の片隅にあって、役者のふとした演技の中で蘇る。記憶とは繋がりの深い嗅覚の記録に、ヒトはいつ成功するのか。いや、なんかそれ誰も目指して無いような気もする。何故だ?
_ 大事なこと書くの忘れてた。たまたま同書の文中、上記の夫婦の交接の描写の中に本来の意味で「毛深い」という言葉が出てきて、突如脳内に上坂すみれさんが降臨するの。これ、どうにかならんかな。