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2024-11-02 読書について。 [長年日記]
_ [読書] 霜月になりました。
シモの月だから今月の記事は下ネタ大目にしようかなと。とりあえずスタイル換えてみたらなんかスッキリしてるなあ。リンクが真っ赤なのもちょっと気が引ける(赤いペンで文字を書くと別れの手紙になるってだれか言ってなかった?あれは緑のインクか?梓みちよか?)
という訳で雑感。人と話をするのはできるだけ避けたいほうです。本は良く読むのだけど、その著者と語り合いたいという風にはあまり思わない。昔からそういう自分に謎のコンプレックスを感じている。自分の心を強く打つ著作の著者に実際に出会って話し合ったら自分はいたたまれなくなってしまうのではないかなどというちょっとした強迫概念だ。その人が人間的に優れていればこちらは引け目を感じるであろうし、逆にあまりにも尊大な人であればこの人からなぜこんな文章が、と戸惑うことだろう。でも考えを変えることにする。著者と著作は同じに見ることはできない。実際の発言の中にはちょっとした思い付きや思い込みで不適切な発言も生まれるだろうし、不確かな記憶を確かめることもできずに推論した結果を述べることもあるだろう。そういう、いわば”脊髄反射で発せられるような言葉”(こう表現すると、失言する人が何となく”脊髄ガエル”のように見えてきて哀れを誘うので時々良い)を発するのがその人である、と考えるべきなのかどうか。どちらがその人の本質であるかなどと考える必要など無い。そもそも「本質」と言う言葉は「これがあれの『本質』だ」と述べている人の『主観』に過ぎない。それがあたかも客観的な言葉のように見えてしまうのが大問題なのだ。こうして自分は不可知論の信奉者となる。その逆のケースはたとえばドビュッシーの人となりとその音楽とをごっちゃに評価してはならない、といった事例をいくつも見出すことができるだろう。ええ。話題が逸れました。
著作は確かに著者の中から生まれたものではあるだろうが、かといって著者の一部を抜き出したものという訳ではない。ゴーストライターや生成系AIが作ったものでないなら、人に読んでもらうことを前提として書かれたものは様々な配慮や思惟や推敲や意図の結果であり、よほどの作為・悪意が無いならば、おそらく自らの良質な部分がその多くを占めるように書かれることを著者は願いつつ書くのではないだろうか。そうであって欲しい、と思うだけかもしれない。そう考える自分にとって、著述と言う作業は”大ごと”であり、成就できることは奇跡のように思える。古代ローマの詩人が詩の冒頭で物語の成就をミューズに祈ることには意味があるのだ。この思いは著述家・作家などと呼ばれる人たちにとってさえ重過ぎるものだろう。ともかく、著者がどんなに嫌な奴であっても、その著作に含まれる普遍的に正しいことまでその著者ごと否定してしまうような愚行には陥りたくない。だから、詩人が詩の冒頭に祈りを捧げるように、読者は読む前にその読書が幸せに終わることを祈らねばならない。それが面倒ならさっさと読み流して腕から時計を外すようにその本とさよならすれば良いのだ。と梓みちよなら言うだろう。言わないかハハ。