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2017-08-22 [長年日記]
そういう馬鹿なこと考えつつ帰ってきたらまたルール破りのゴミ投棄がなされているのを見つけた。しぶしぶ回収してまた区の資源回収局にめーるする。先週末の分もまだ引取りに来ていないので我が家は掛け値なしのゴミ屋敷である。その回収をしているところに平気でゴミを投棄に来た人がいたためについ怒鳴りつけてしまった。彼は明日回収予定のペットボトルを捨てに来たのである。まあそれだとてルール違反に違いはないのだが、ここしばらく続いているルール違反に比べるとほとんど罪はないようなものだ。しかし彼との軽い諍いの後で感じたのは、このことに深く関わりすぎると身を滅ぼしてしまうのではないだろうかと言う危惧だ。行政や警察に任せてしまえたら良いのだが、それも決め手とは言いかねるし、何しろ対応が迅速とは言い難い。これからこの地域もますます多様な人々の住むところとなっていく。小さな町内にも立場の違いによる溝深い対立が生まれようというのであろうか。この問題を一人で何とかしようとしてはいけないに違いない。
最近なんだろう、一日の中で気分が何度も上下しているように思われる。これは情緒が不安定だというよりも、本当にいろいろなことが一日の中で起こっている、あるいはそのことに気付く、ということだと思う。今日の収穫。乳製品だと思ってたコーヒーフレッシュ(←関西弁)は実はそうじゃなかった。珈琲に混ぜるそれを乳製品として摂りたいのならやはり牛乳が一番だが、スキムミルクも代わりに使えることが今更わかった。意外なことに冷水にも結構良く溶ける。明日のオフィスで飲む私のアイスコーヒーにはきっとスキムミルクが入っていることであろう。
ついでだからもう一ネタ。ヒトのゴミを気にするあまり今日出そうとしてた自分のゴミを一部出し忘れてることに気付いた。これは凹むぜ。笑うしかなし。
_ [物理学] 保存則
というわけでいまだ中心対称場の角運動量保存則に引っかかっている。ネーターの定理を、いろいろな微小変位に対して応用するのだという概念的なことを具体的な計算に移す段でつまづいているのだから、要するに実力として身についていない、ということだ。それは確かに車輪の再発明と言うべきもので、与えられた車輪を巧く使って楽をすることとは別の意義がある。大きなことを言うようだが、万一車輪が無くなっても手持ちのがらくたからそれを再構築することができるようになる、ということだと思う。そんな機会は一生来ない、と信じている者にとってはまるで価値が無い。たぶん大学のマスターコースの受験勉強の時にもそんな学習の仕方をしていたのだ、と思い出す。合格はしたけど成績はすこぶる悪かった。毎日のように私の部屋を訪ねて来ては自分のストレス発散に私を利用していた男がいたことも原因の一つだったが。その男のことは今でも大嫌いだ。そのことを当時ちゃんと表明できなかった自分はそれ以上に許せない。その頃の生活を思い出すと何とも言えない気分になる。この気持ちは大事な気持ちだ。決して忘れてはならない。囚われてもならないのだが。とにかく、クリアな理解のできることは世の中にそう多くないのだから、そういう問題くらいはちゃんと理解してスッキリと余生を過ごせるようにしたいじゃないか。