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2021-10-25 [長年日記]
_ 引き続き『ヴァギナ 女性器の文化史』読んでいる。訳者の後書きを含むと420ページになるので読み応えはとてもある。で、今日の疑問点。陰核に関する解剖学的な記述の初出と認められるものは1300年代とある。これが性感を惹起するものという記述がなされているとのことだが、じゃあ何か。ヒトはキリスト誕生後1300年以上も、陰核の快感を知らずにいたというのか。それは無いだろう。この本の中の別の箇所は、陰核切除の慣習がエジプトの少女になされていたという紀元前の記述にも触れている。なぜこの部位が禁じられねばならなかったかと考えれば、陰核による性感の惹起はおよそ人類としての生殖の仕方を身につけたときには発見されていたに違いないのである。こんなわかりきったことをわざわざ書いてること自体が何かヤボなことに思えてくる。因みに、イバラ姫とか眠りの森の美女の譚というのは、望ましく無い男性に対しては牙や棘のように作用するヴァギナ・デンタータであり鋭い陰核である一方好ましい男性に対してだけはそのピンクの薔薇に喩えられる花弁を曝け出す交合のメタファーであるのだとか。こんな記述を見て今感じているのは、なんかエッチなこと書くのも読むのも見るのも流石に飽きてきたかもしれない、ということだ。恋愛ドラマにせよアダルトビデオにせよ、いかに趣向を凝らしたところで所詮同じようなことをやるのを少しずつ違う風に描いているに過ぎないじゃ無いか、何かそんな風に感じているのだ、昨今。だったらその中のどれを選ぶにせよ手っ取り早く済ませてしまっても良いし、何なら接することさえ端折ってしまっても良いのでは無いか。歌やドラマが悉く恋愛ということに偏っていることには結構前から飽き飽きしている。誰も彼もが陳腐な自己模倣のように、彼らが愛情とか絆とか読んでいる、その実それは原初以来の慣習だったりホルモンの作用という生化学的な現象でしか無いことを大事そうに繰り返し抱えては傷ついているというのでは愚かすぎる。