吉田(豊橋)−岡崎
〜∧サ の竹輪と菜田楽、甲乙付け難し〜
<Introduction 10/2 会社で>
このあいだの野宿旅からもう一月半も経つのか、と会社で思った。
ここんところ歩きにも行っていないなあ…久方ぶりに抜け参りに行こうかなと思った矢先、愛知県出身の同僚のIサンががワタシに言う。
「豊橋と言えば『やまさのちくわ』だ。」
ではひとつ所望しに出かけるとするか。日常のさまざまのココロを振り切っての抜け参りの13番目。
<9:27新横浜駅>
今までずうっと普通列車で行き来していた抜け参りであるが、この日はちょっと起きるのが遅かった。どうしよう、行くの止めようかな、やっぱり行こうかなと3秒ほど考えてやはり行くことに決めた。
それで新横浜である。新幹線『木霊』でしかもグリーン車とは何とごうせいな。おベントも買ってと。ウム、たまにはこういう旅も良しとしよう。なんたって電車の中で煙草が吸えるんだからいいや。
窓からの景色を見るにつけ、ここも通った、おやここも、あれ、この辺は知らないなあ…などさまざまに思いなすもいとおかし。
<11:34豊橋駅> そうか、新幹線でも2時間掛かっちゃうようなところまで歩いたんだなあ。 豊橋駅から外に出ると、周りの風情は見知ったような見知らぬような…しかしここの通りのトーテムポールは見覚え有るぞ。ところで、本格的に歩き始める前にちょっと寄りたい所がある。はじめにSEIBUデパートでリーボックのウォーキングシューズを購入。先だっての連続野宿旅ではすっかり足が疲弊したため、その対策となると思って購入した。 次いで文具屋へ行く。実はしばらく歩いてなかったので今日は愛用のマップメジャーを家に忘れてきたのだった。何たる不覚!メジャーもさることながら方位磁針が無いとワタシは街中でもあっさりと道を間違えてしまうのだ。 磁石単体でも良かったのだが、結局磁石付きのマップメジャーを購入した。ついで鈴木珈琲店なる喫茶店に入ってこれからの道程を確認しつつ一服…ここの珈琲なかなかいけるなあ。 名古屋近傍では喫茶店の珈琲にお茶菓子がつくことで有名だが、珈琲のコクに関してもなかなかのもんなのである。 |
トーテム崇拝が盛んな豊橋の市内。 |
おっと、落ち着いてる場合ではないぞ。まずは豊川に向かって歩いて行く。途中噂のヤマサのちくわ本店があったので、鯛のすり身の入っていない安いやつを買って会社宛てに送り付けた。
豊橋の豊橋。 豊川古道と道標。 |
程無く豊川に掛かる豊橋を越えて左に曲がると、豊川の古道である。江戸日本橋より七十四里という道標がある。七十四里と言えば285.6km。今日のうちに300kmを越える算段だ。足の調子はすこぶる良い。リーボックのエアクッションが歩くたびにプシプシと言っているのもいとおかし。 古道を歩いていくと、豊川放水路にかかる高橋。それを渡り切ると、小坂井(こざかい)というところに着く。菟足(うたる)神社の手前に「子だが橋の碑」がある。高橋は違う橋のようだ。 千年の昔、菟足神社の春の大祭の日に橋を通る若い女は人身御供とされる慣わしがあったらしい。或る年、この橋を通ってきた女がいけにえにされる時にその女の親がいて、「自分の子だがしかたが無い」と言ったそうな。 その後、人身御供の風習は無くなり、人の代わりに…人の代わりに…ええと、スマン、忘れた。メモしておけば良かったなあ。 人の代わりに確か何か鳥を生贄として供することになったのだったと記憶する。 間違っていても責めないでくれたまえ。
子だが橋の碑。 |
<15:00ちょっと過ぎ>
御油(ごゆ:第三十五宿)の松並木の入り口に到着。
御油の松並木前。 |
やはり松並木があってこその東海道。少し行くと児童公園があったので、小休止。ここに、膝栗毛の弥次喜多のエピソードを綴った看板があった。 御油の手前。年下の喜多サンは先に行って赤坂の宿を確保してくると言う。弥次サンは後からゆっくりと歩いて御油の茶店で小休止する。そこの婆に、ここいらには狐が出て人を化かすと言う話を聞く。弥次サンは化かされないように眉毛にツバを付け付け歩いて行くと、先へ行ったはずの喜多サンが土手で煙草を吸っている。これは狐の化けた物だと思って弥次サンは喜多サンを縛り上げて引っ立てていくのである。実は先へ行った喜多サンも狐の噂を聞いたので、後から来る弥次サンを待って一緒に行こうとしていたものだった… まだ日暮れまでは間があるので化かされる心配はないであろう。 また歩き出すと、御油から2キロほどでもう次の宿場、赤坂(第三十六宿)なのであった。御油−赤坂間は東海道中で最も宿場間の距離が短いのである。 |
赤坂のあたりもまた、昔の風情を保っているように見える。ここには大橋屋という旅篭がある。いや、冗談じゃなくってホントに旅篭屋なんだってば。 実は今朝がたヨコハマを出る前に、ここで泊れるかどうか電話で聞いてみたのだが、当日では無理ですとの答えだった。『広重五十三次を歩く』(土田ヒロミ:著)によると、大橋屋は昔「鯉屋」と言って、慶安二年(1649)の創業なのだそうな。泊りたかったなあ…
浮世絵なんぞを飾っているのもいとあはれ。 |
な?旅篭だろ?な?(大橋屋) |
大橋屋をしばし眺めてから、また歩き出す。赤坂から6キロばかり進み、岡崎市に入る。
本宿というところを通る。藤川までもう少しだ。
本宿。 |
<18:00ちょっと前> 藤川(第三十七宿)に着いた。ここには宿の境界を示す棒鼻というのがある。広重の絵を参考にして再現した物であるらしい。立て札を見ると、
…とまあこう書いてあるから、あと1時間半も歩けば岡崎に着くのである。 |
棒鼻とは宿場の出はずれのこと。 |
辺りも暗くなってきた頃、岡崎(第三十八宿)の宿場に入った。ここを旧街道に忠実に歩こうとすると、二十七曲がりに沿ってカクカク曲がって歩かねばならない。城下町の道がこのように複雑に曲がっているのは戦略的理由が有るというがワタシには良く分からない。大名同士が出くわすと揉め事が起こるため、「かねんて」という曲がりをつくってその陰で片方が他方をやり過ごすことがあったとは聞くが。
昔は「岡崎女郎衆」などと言って遊女の多くいたここは、今は大きな研究施設のあるモラリティの高いように見える都市である。差し当たり今宵の宿を決めて、飲み屋へ行く。明日は岡崎城を見物に行こう。本日の歩きは33.5km。リーボックのおかげである。
<10/4 10:00頃−宿を出立> 今日はのんびりと岡崎見物をしてから帰るつもり。こんな風に歩きの翌日にゆっくり物見遊山するのは箱根湯本(第三回)と三島(第四 回)以来久しぶりではなかろうか。なにしろ翌日また歩いちゃったりするからな、このごろ。 宿のそばの六所神社をちらり見に行く。ここには家康公の手形があった。手形に手を合わせてみた。 何も起こらなかった。 いや、別に何か起こることを期待してたわけじゃないんだが。 |
「しわとしわを合わせてしあわせ」 |
岡崎城へと向かう途中、質屋を発見。日本のどの辺から「しちや」を「ひちや」と呼ぶのかは知らないが、ここいらは「ひちや」である。
最初に見たときは
何だか分からなかった。
岡崎城に入城する前に、城のすぐ下にある喫茶店に入って珈琲を飲む。ワタシは大層珈琲が好きなのである。
ワタシが入ってほどなく、二十代前半と見える女性が自分のおババサマらしき腰の曲がった老女を伴って入ってきた。聞くとも無く会話を聞いていると、若い女は以前この喫茶店で働いていたようだった。おババサマは珈琲が好きなので、一度連れて来たいと思っていた、などと店の者と話していた。
岡崎城へ。言わずと知れた家康公の出世城である。お土産売り場には家康公グッズなど置いてある。 もちろんここでも家康公に会うことが出来た。 いやいやどうも。浜松城以来ですね。
ちょっと老けましたか? それはそうとして、色々見ているうちにおなかが空いてきた。岡崎城公園の中に菜田楽を食わせる店があったので、入って注文する。 |
岡崎城 |
田楽というと東京辺りじゃこんにゃくなのかもしれないが、ここでは豆腐。豆腐には二本の串が刺してある。その上には八丁味噌のたれが…
う・うますぎる。
こんなにうまい味噌をどこで作っているのかと言うと、名高い「カクキュー」という岡崎の会社である。
帰りがてら工場を見に行った。
休みだった。休みでないときには工場見学もできるらしいのだが。
これがカクキューの工場。
まあ、田楽も堪能したし、中岡崎から帰るとしよう。月曜日には会社にヤマサのちくわも届いてることだろうし。
このあとワタシには不幸な事件が起こり、しばらく歩き旅が出来なくなってしまう。このときはそんなことなど知る由も無い。
<お土産>
うまかった。
<脚注>
1.『木霊』…どうでもいいが漢字で書くとえらく雰囲気悪くなるなあ、こだま。<戻る>
2.マップメジャー…のことをまだ説明したことは無かった。7x5cmくらいのこういうやつである
多機能なので珍しがりのワタシのお気に入りなのである。<戻る>
3.御油−赤坂間は東海道中で最も宿場間の距離が短い…より正確には十六丁で1.7km。二番は平塚ー大磯間で二十七丁(2.9km)。<戻る>
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