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今様膝栗毛 第18回(99/07/30)

三雲―京都三条大橋

 抜け参りの上がり。       

     (夏休み連続行脚その4)


<4:30>

雲のホテル寿苑の夜明け前、唐突に電話のベルが鳴る。「営業時間前だから…」と言って昨晩モーニングコールを渋っていたフロントの方がちゃんとモーニングコールをくれたのであった。

深謝。とりあえずこの時間に起きることが出来さえすれば、あとはもうなんとかなるだろう(笑)。

部屋で昨夜ここに来る途中のコンビニで買いこんだ食事を平らげて珈琲を一杯飲む。珈琲もレギュラーの1杯立て用のヤツを買って来てるのね。一人旅続けてるとこういうところに気が回るようになるのだ。

フロントで清算すると、お茶を1杯出してくれて、旧街道は外を出てすぐホテルの裏手を通っていると教えてくれる。

♪結構良いヒトなんじゃないか、フロントのヒト。

よし!出発だ。街道歩きもいよいよ最終回。


歩き出して間も無く、由良谷(ゆらたに)川下のトンネル。こういうのを天井川っていうんですね。右へ行けば新田道。

  

トンネルはひんやり。この手前にも大砂川という天井川がある。

トンネル通ってすぐ、北島酒造。こんな朝っぱらからちゃんと暖簾出してるんだネ。あ、ちなみに今まだ七時前です。

文化二年(1805)創業の北島酒造。

「御代桜」「柳川」というのが有名だそうな。

ここいらでも「飛び出せクン」達をずいぶん見かけたが、じつにさまざまなキャラが。パンツかぶってるやつはどういうつもりなんだ、一体。

このあたりの飛び出せクンの元締めは「地域クボタ会」。

いや、パンツじゃなくてただの帽子かもしれないけど。


<7:00> とまあそんなわけで石部(第五十一宿)に到着。ここいらはまた古い造りの家が多いのだが、関宿のように意図的に保存している風とはまた違って、古くからの家に今でも自然に人が住まっているという風情。

小島本陣跡。明治元年に時の天皇が宿泊したことも。

宿の先を行くと、道は灰山を挟んで上道と下道に分かれる。灰山はもとは石部金山とも呼ばれていて石灰や銅を産出したとのこと。

削りとられた灰山。

採掘の爪あとが異様な風情。周りが平地なのも違和感の原因だろう。その灰山を左手に見て進む。

「飛び出せミッキー」がいた。

やがて六地蔵という辺りにでる。薬局を見つけて、ここ数日痛む左足にシップ薬を貼ると、かなり痛みが和らぐ。

シップ薬のお世話になるのは生まれて始めてじゃなかろうか、σ(^Ω^)…。旧和中散本舗もこの辺り。

 

六地蔵と付近の道標。

<8:45>

 手原の少し手前、伊勢落というところで小休止。日が照り出した。辺りは田んぼばかり。のどかな田田風景、ですね。

 それにしても、西へ西へと向かっているから、左手ばかりが日焼けしている。京都から歩いて戻ってくれば右手も同じように焼けるだろうか…。

 上鈎という辺り。足利義尚公が近江六角氏を攻めに来た時(1487)の記念碑があった。

義尚公陣所ゆかりの碑。

さらに進むと、シーボルトゆかりの善性寺。文政9年4月25日、江戸から(長崎への?)帰途、ここを訪ねたという。当時ここの僧だった恵教は植物の研究をしていた人だそうで、それを知っていたシーボルトがここを訪ねて、スイレンやウドやタチバナなどを見せてもらったと。

善性寺前に、シーボルトとの関連を記した立札。

東海道を示す道標には「やせうま坂」とあった。「老牛馬養生所」などというのもあって、往時は馬のいななきがさぞうるさかったことでしょう。

やせうま坂道標。

老牛馬養生所址。

 かなりゆっくり目のペースだが、もう草津の宿は目前。草津川の堤防近くで…

でた、「飛び出せ婆ちゃん」。

飛び出すのは何も子供だけじゃないんだよね。


<10:30>

 遂に到着、草津(第五十二宿)。草津川が天井川になっていて、そのトンネルのそばには大きな常夜灯。

道標を兼ねている。

トンネルをくぐれば中山道を通って東京日本橋に帰れるわけです。いや、まだ帰るのは早い。

本陣。改修は平成8年だそう。

 「脇本陣」なる甘味処にてレモンかき氷とアイス珈琲を注文。しかし寒い店内だ!長居をすると風邪引いちゃう。かき氷をあわてて食べたので、頭痛がする。トイレに行って早々に出ようと思ったら、なんとトイレ掃除が始まっちゃったよ。

 そこで「街道交流館」に逃げこんだ。トイレを借りて、ついでに絵葉書を買った。

 さ、先を急ぎましょ。何しろ今晩は7:30に三条大橋で待ち合わせなんかしてるんだから。一里塚跡を過ぎて一路大津を目指す私。

 

一里塚跡。近くにはシブイふすまのお店も。

<11:45>

 「フレンドリー」という南草津のファミレスでちょっと早い昼食。

 ここに来て足の疲弊はまた激しい。かつ、早起きのために眠気が押し寄せてきた。かなり余裕を見たスケジュールのつもりだったんだけど、残り15kmほどの道程と、ここまでに要した時間を考えると、あまり余裕がないなあなどと思う。

 エイ、こういう時はメシをタップリ食べるより他にない。幸い食欲は旺盛。タップリ食べたら12:30までゆっくり休んでよう。


<14:30>

 ゆるゆる移動して、やっと唐橋に辿りついた。ということはここはもう琵琶湖のほとりだ。

 

唐橋の東京側。左には常夜灯も。

おお!憧れの琵琶湖。遠江(浜名湖)も大きかったけどやはり近江の方がもっと大きい。

 

この景色も琵琶湖のホンの一角に過ぎない。

 というわけでやっと大津(第五十三宿)です。ホントに五十三個歩いてきたんだろうか、ちょっと思い出してみようかね。

 品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚…

 まあいいや、先を急ごう。休み休み歩いていても、歩きつづけていれば自然先には進んでいくものなのだね。道は次第に上り坂に。

 木曽義仲の菩提寺である義仲寺の前を通る。

芭蕉の墓もあるのだが、見ないで過ぎてしまった。

 さて夕刻も迫ってきたころ。KOUサンの携帯に連絡をいれ、このペースだと19:30に三条大橋到着であると告げた。また小休止していると、向い側に変わった名前のお医者サンを発見した。

どんなに疲れていても、こういうものを見逃すσ(^Ω^)ではない。


<17:00>

 さて道は次第に登りとなり、ついに逢坂山だ。ここに到ると、京都が近いことを思ってついつい足が速まってしまう…とは誰が言った言葉だったろうか。蝉丸社にも立ち寄ることなく先を急ぐ。音楽家を目指すようなことがこの先もしもあったらまたここを訪ねよう。

 かくして峠もほぼ頂上。逢坂山関址が見えた。車の通りが激しい。

 

常夜灯と関の跡の碑。

 さらに追分を過ぎ、辺りはもうすっかり都の風情となる。街中にひっそりと小さな古い道標も。

 

 山科の辺りでは渋谷越道標を見つけた。

 

右は三条道、左は五条橋、ひがしに六条大仏今ぐまのきよ水道。

 あろうことかここで道に迷ってしまった。休憩を兼ねて手近な喫茶店に入る。アイス珈琲を頼んで道を尋ねて20分ほどで出てくる。

 さあだいぶ時間が迫ってきた。急ぎ行くと日の岡という辺り。ちょっとした登りとなっている。ここを歩いていると後ろから追いついてきたスクーターの女性が声を掛ける。2、3言葉を交わすと、この先あと少しでまた蹴上と言う坂があると。スクーター女史は「ガンバッテね」と言葉を残して先へ行く。わたしは「また坂か…」と少々くたびれつつも考えた。

 思えばこのような坂道を行かずとも、京の町へ出る平坦な道筋はいくつもあるのではなかろうか?なのに、長旅の上がり間近にわざわざ坂を配した理由とは何だろう。これはもしかすると、都を目前にしてあとヒト踏ん張り、という気力を保たせるための工夫であったのかもしれない。

 蹴上の坂を通る。車も多く行き来しているが、ナント自転車でこの急な坂を上って来るヒトが何人もいるのにちょっとビックリした。

 かくしてわたしも上がり間近で行き倒れになることなく京三条に到着した。時刻はまさに19:30。

 待っていてくれているはずのKOUサンを探して見た。事前情報に寄ればKOUサンとは雲を付くような大男とのことである。すると、橋の欄干のところでわたしに拍手を送っている女性がいる。それは先に出会ったスクーター女史だった。

ついでにスクーター女史に記念写真を取ってもらったのです。

励ましのお言葉ありがとうございました。

 旅は道連れ世は情け。道連れはたまにしかいなかったけれど、人の情けをまさに上がりの京三条で思い知るわたしであった。

 やがてKOUサン他関西在住のチャ友の方々にも迎えられ、京の夜はまさに更けて行かんとしている。

この写真はKOUさんに取ってもらった。

東海道の上がりを記念してコント・ゆうとぴあのポーズ。

でもすんごい疲れてるんだよね、この時。

じゃ、乾杯しに行きましょっか、皆さん。


<おまけ>

京都の宿は元治元年(1864)から続いている田中屋旅館。

翌日は京都観光一切しないで電車で帰りましたとさ。


今様膝栗毛 東海道の巻 一応、