第14回(99/07/06)
岡崎−鳴海
〜今業平のσ(^Ω^)が業平の古跡を訪ねる(笑)〜
<Introduction 98/年末の某日昼下がり、自宅にて>
「いてえ!」
一体なんのこっちゃと諸君は思ったことでしょう。実はワタシは昨年の年末に自宅でコッセツしたのである。自宅に届いた宅配便を受け取りに玄関先へ出た際、ワタシの足は無造作に置いてあったリーボックのウォーキングシューズの上に右足が乗ってしまった。くるぶしの上まで高さのある靴は横倒しになる。するとワタシの右足は支えを失って第五指側から地に付く。そこに60kgほどある体重が掛かると、人の骨は弾性限界を超えて破壊するらしいのであった。
かくして生涯における初めての骨折は、右足第五指の剥離骨折であった。年末は当然どこへも行けなかったので、パソコンを購入してこのホームページを立ち上げるに到ったのであった。雪の無い冬で良かった…。
明けて99年のゴールデンウィークに再出発のつもりであったが、体調今ひとつ思わしくなく、とうとう7月となった。
と言う訳で、ここに来てやっと今年の歩き旅の記事が書ける。前回からナント9ヶ月振りの抜け参りは14回目。まずは岡崎へGO!
<12:00頃 中岡崎>
今回も早起きしてゆるゆるとやってきた岡崎城に近い愛知環状鉄道は中岡崎駅。9ヶ月もの期間を空けたにもかかわらず、前にここに来たのがついこの前のような気がする。 電車を降りようとしたら車掌サンが慌てて降りてきて「キップ、キップ!」と叫ぶ。どうやら切符は改札ではなく車中で車掌サンに出すものであったらしい。知らずに電車を少々足止めしてしまった… 中岡崎駅にほど近いうどん屋、大石庵釜春でまずは腹ごしらえ。 この店では手打ちの実演をやっており、一度に十人前ほどのうどんを打つと言う。ワタシはここでとろ天ざるうどん1730円を美味しくいただいた。 13:00に大石庵を出て、まずは矢作(やはぎ)橋に向かう。矢作川に掛かるこの橋の上で日吉丸と蜂須賀小六がであったというのだが、この話をワタシは知らない。 このシーンはカクキューの八丁味噌の昔の看板にも使われていたのだそうな。なんでも日吉丸はカクキューから筵(むしろ)を盗み出したことになっているらしい。 |
しかしながら駅のそばに 上の方にいるウサギも |
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← で、これがそのモンダイの出会いのシーンです。 言われてみれば日吉丸、寝起きの悪そうな顔つきにも見える、などといいつつ。 矢作橋を渡ると程無く、誓願寺がある。ここは源義経と噂になった浄瑠璃姫の菩提を弔うところだとか。この話も知らないんだよなあ、ワタシ。国文学の造詣が全く無い。 → しかし、知らないと言う事は知らなきゃいけないことが一杯あるということで、まあ今後の楽しみが山ほど有るということでもあろうし、今は先をいそぐとしましょう。 |
ここが誓願寺。 |
どうでも良い人にはどうでも良いことかも知れないけれど、知らない土地に出かけてふと思いがけず懐かしいものに出会うことは良くあることである。と言う訳で今回ちょっとレトロな琺瑯看板に注意して歩いて見ました。こういうのをコレクションしてる人も世の中には沢山いるのだよね。インターネットで「レトロ看板」とか「琺瑯看板」とか検索するといっぱい出てくる。水原弘のアースの看板とかね。で、ここいらで見つけたのは、
とか とか。 |
こういう看板はそれ自身を見ていても結構面白いけれど、存在地の分布を調べるとまた面白いかもしれないね。それの多く見つかる場所は街道沿いとか線路沿いとか、かつては多くの人がそれを目にしていた場所を示す示準化石のようなものになっているのかもしれない。
ひっそり |
道端にひっそりとある一里塚跡の碑… ← …を越えて、14:20永安寺に到着。ここで小休止。敷地の中には横にばかり枝を伸ばした雲竜の松があった。 → 靴を脱いで足を風にさらす。今回、昨年末の骨折の間接的原因となったリーボックのウォーキングシューズを履いているのだが、左足の方のエアクッションが抜けて歩くとスカスカ言う。そのせいか、左足にマメの予感がする。「マメの予感」とは、足裏の一点に鈍い痛みを感じ、かつその部分が周囲よりも高温になっている状態を指す。 セロテープを貼っておいたり石鹸を塗っておくと靴の底との摩擦係数が少なくなってマメが出来にくいという話もあるが、ワタシはマメの予感のする部位に事前にカットバンを貼るのが常である。 だいぶ暑くなってきたが、まだまだ行ける。今日は不思議とあまり水を欲しく思わない。 |
これみんな一本の木の枝なのである。 |
永安寺のすぐ先にある明治用水の碑を越して浜屋町という所に入る。ここいらはもう岡崎市ではなく安城市である。 閻魔堂のそばにお相撲サンの石碑が。濱碇というのが四股名かな? |
「明治用水は今は暗渠(あんきょ)」 |
それにしても日立のキドカラーに対抗して東芝がユニカラーというテレビを出していたのはここにあったホーロー看板で初めて知りました。各社なんとかカラーってのがあったのだろうなあ、かつて。品名も高尾とか名門とかモノモノしくてちょっとコワイ気がした。当時のテレビには威厳があったような気がする。調度品だったからね、木の扉なんか付いてたりして。
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<14:55> 中岡崎から歩き出して2時間ほど。猿渡川にかかる猿渡橋を渡る。黄色の地に緑の松の装飾が目に鮮やか。見れば背景の空も日本晴れって感じですね。→ で、この橋を渡るともう知立市に入っちゃうんですね。「知立」は「池鯉鮒」とも書く。どっちも「ちりゅう」と読むのである。 知立といえば昔男。在原業平の古跡、八橋の地である。旧街道を少し北に外れるが「今業平」と呼ばれるワタシとしてはお訪ねせずにいらりょうか。 そして八橋町に着いた。電柱に貼ってある住所の表示も「八橋町 井戸尻」なんて書いてあって、ここらの住人は今でも狩衣着てるんじゃなかろうかなどと思う。 |
「さわたり」、と読むそうです。 |
狩衣来てる人は見当たらなかったが、八橋かきつばた園に到着。
「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」
って流行歌があるのは、諸君御存知だよね。
さらば今業平と評判のワタシも「かきつばた」で歌ってみましょう。かきつばた、我に発句の思いあり、なんてね。
「かわのなか きっとさかなが つれるぞと ばんまでねばって たにしがつれた」
「その心あまりて、詞たらず。しぼめる花の、色無くて、匂ひ残れるがごとし。」と紀貫之に評された業平サンの歌とはなんという落差であろうか…。
無量寺というお寺サンである。 |
もちろんこんな夏の盛りにかきつばたなんて咲いて居るはずは無いのだった。かきつばたが盛りになるのは、五月から六月あたりでしょうか。
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八橋旧蹟。 |
在原寺の門。 |
昔男と山頭火という取り合わせがなにか面白い。 喉が乾いたのでポッカリエースを飲んでから在原寺(ざいげんじ)へ向かった。ここは尼寺であるらしいが、尼サンの姿は見えなかった。小さな山頭火の句碑があった。 |
さらに旧街道から外れて、業平の墓所をたずねる。途中「根上がりの松」というのがあった。植わっていた地面が下がってこのような姿になったのだそうな。
根上がりの松。
業平の墓所はその根上がりの松から程近い、名鉄三河線踏み切りそばの塚である。
線路沿いの入り口。 |
墓所の碑。 |
これがお墓。 |
古典の教科書と百人一首でしか知らない人物がここに眠っているという。ワタシの膝栗毛よりも遥かに千と百年あまり昔に彼が東下りの旅でこの辺りを歩いたという。真偽の程は定かではないが、そう言う物語の元になったなんらかの存在が確かにこの辺りにいきづいていたのだ。旧跡をたずねる旅のココロとはそのことを体感するココロに他ならないであろう。だから、ヤマトタケルさんだって古代の東海道を剣を杖にして確かに歩いていたと思うのである。
吾妻男川という名の川沿いに旧東海道へと戻っていく。川には水鳥がいる。これなん都鳥、ではないだろうけど。
吾妻男川の川端の道。
日が少し傾きつつあるのどかな風景の中を歩くのは限りなく喜ばしい。道だって足に優しい土の道だもの。
<脚注>
1.ウォーキングシューズ…今様膝栗毛第13回に登場した。岡崎のSEIBUで買ったものである。<戻る>
2.カクキューの八丁味噌…今様膝栗毛第13回で田楽の上に乗って登場した味噌。<戻る>
3.水原弘のアースの看板…とり・みきのマンガに「アース様と言うと水原弘のことか?」というギャグがあった。<戻る>
4.かきつばた、我に発句の思いあり…これは芭蕉サンの句である。<戻る>
5.「その心あまりて…」…古今和歌集、仮名序より。<戻る>
6.ポッカリエース…以前富士から清水まで一緒に歩いたMAXクンのお父さんが
のことをこう呼んでいると言う。<戻る>