今様膝栗毛 第16回(99/07/28)
四日市−亀山
〜ヤマトタケル終焉の地にて
(夏休み連続行脚その2)〜
昨日の疲れもものかは、ビジネスホテルつばめを出て三重の地を歩むワタシである。今日は関の「御茶新旅館」という宿に泊る予定だった。関宿は昔の風情を残す宿場。楽しみだ。
しかしながら足に少々疲れが残っている。今回履きなれたリーボックのウォーキングシューズをはいて歩いているのだが、実はこの靴、左のエアクッションが若干ガス漏れ状態なのである。舗装道路からの反動は左足に集中する。長く歩いているとそれが結構辛くなってくるのである。
こんな調子で関までたどり着けるのかね、ちょい不安…。
<9:00ちょっと前>
まだ店の大半が閉まっている四日市は諏訪栄商店街を通り、やがて日永の一里塚から追分へ。この辺りを過ぎると道はまたホドヨク田舎道になっていく。
日永の追分。左は伊勢道。 |
なかなかに長閑な眺めであるのだが、眺めとはうらはらにσ(^Ω^)は今、非常に微妙な体調の崩れを感じつつあった…
<10:00> …なぜでしょう。
σ(^Ω^)はこの時、どういうわけか「山中胃腸病院」という病院にいたのである。
決して急に癪が起こったとか、飛び出せボンズよろしく街道を飛ばす車に跳ねられたとかいう訳ではなかった。
トイレを借りに入ったのである。
デイバッグを背に汗だくの男がいきなり入って行ったのを見て、家で持て余されて病院で寄り合っているお年寄り達は何と思ったでありましょうね。けど、こっちは相当切迫していてそれどころではなかったのである。
いやあ、助かった。医は仁術なんてくらいですからね。
それにしてもだ。実はここの手前で果物屋を見つけて、トイレを借りられるか訪ねたのだが、「それはできません」とそっけなく断られた時のσ(^Ω^)の落胆振りは筆舌に尽くし難い。覚えてろよ、店のオヤジ。
ともかくひと心地着いてまた歩き出すと、どうにも左足が痛む。やはり靴のクッションのバランスが悪い所為だろう。
ここいらはそろそろ小古曽(おこそ)という辺り。もうすぐ、日本武尊サンゆかりの杖衝坂である。日本武尊サンは東征からの帰りに山の神の祟りを受けていたく疲弊しながら歩いた辺りである。わたしも今や杖を衝かんばかりに足を痛めつつある。
吾が足は三重の勾(まがり)の如くして、甚(いと)疲れたり。しばし休もう。
杖衝坂に程近いところに、お休み処がある。どうやら東海道ルネッサンスに関連したもののようで、例の丸っこい弥次喜多の看板がある。
長閑な日になりそうだ。暑いけどね。それにしても靴は重要だなあ。数日に渉って歩くのも久しぶりだし、次第に疲れが溜まっていくのも予想される。これはちょっとツライ歩きになるかも知れない。よもやσ(^Ω^)もどこかで山の神の怒りを買ったんだろうか?
などと思いつつ三、四十分ほどうつらうつら。
杖衝坂手前のお休み処。そばには例のヤツ。 |
<11:55>ちょっと楽になったので、先を進もう。小さな橋を渡ると川辺には鷺のような水鳥がいる。こういう鳥を目にするのはσ(^Ω^)には珍しい経験なのである。坂の袂の木陰には小さな常夜灯が。
ひっそり。 |
おっと!あろうことか、フィルムが切れた。この付近には売っていそうなところが無い。
というわけで血塚も山神の碑も芭蕉の句碑も一切写真に収めることができませんでした(TΩT)。泣きっ面にハチ。
坂を過ぎて1号線沿いのラーメン屋で昼食を取る。コンビニでフィルムを補給する。足の痛みは残っているが、あまり気にしないようにしよう。
行き行きて、石薬師(第四十四宿)にたどり着いた。
小沢本陣跡を撮影。 |
今日は足の調子が今一つなので、ペースゆっくり目。佐々木信綱記念館も外から見るだけ。
信綱の生家。信綱さんは有名な国学者なのであるが、 σ(^Ω^)は「夏は来ぬ」の作詞者としてしか理解していない。 |
その後、瑠璃光橋という橋をわたる。青い色をしてるから瑠璃なのだろうか、瑠璃だから青く塗ったのか。
これを渡れば程無く石薬師寺である。
瑠璃光橋。 |
石薬師寺でしばし足を休める。
山門。というか裏門かな。 |
弘法大師が彫ったって言うんだけど… |
ここはもともと瑠璃光院と呼ばれた大きなお寺サンだったらしいが、戦国時代に焼け落ちてしまったそうな。ここの本尊の石仏は弘法大師が彫ったものだというけれど、真偽の程は?空海自身は日本に帰ってきてからはそんなにあちこちを訪ねたことは無いらしいからね。
さて、ここを過ぎれば程無く石薬師の一里塚。ここも片側しか残っていなかった。
一里塚。 |
ここから先は庄野の宿まで鈴鹿川にほぼ沿うルート。右手に田んぼを眺めながらゆるゆる行けば、いつしか庄野(第四十五宿)に。昔小林サンという人の家だった建物が、「庄野宿資料館」となっているので立ち寄った。
「庄野宿資料館」は月・金・祝日と年末年始を除いて |
この記念館は平成10年に開かれたもので、案内役として女性が一人居る。館内はこんな感じ。
スダジイの巨木。うしろの家と大きさ比べてみてね。 |
庄野宿は1626(寛永元)年に五十三次中最後の宿として成立したと。部屋の中をあちこち見せてもらって、訪問の記念に記帳してまた先を急ぐσ(^Ω^)。良い休息となった。この先にはなんとか言う大きな木があると聞いたの見に行く。スダジイと言うのだそうだがなかなかでかい。本陣跡は今は公民館。
<16:00> 旧街道は一号線と微妙に交差して汲川原町へ。細道の脇には山神様を祭る自然石の碑。そのそばの「女人堤防の碑」で小休止していると、カートを押しながら歩いている腰の曲がったおばあちゃんがやってきてσ(^Ω^)のそばで休む。足が痛くて休みながらじゃないと歩けない、と愚痴をこぼす。
あんたの気持ちが今日は良くわかるσ(^Ω^)だよ、おババ。
山神の碑。裏を見たら「たつひこ」って書いてあった。 なんて下らん嘘言ってると「死刑」だな。 |
ばばさまとツーショットで休んだ女人堤防碑。 |
この堤防は今一部を残すのみで、禁を犯して村を守るための堤防を女手だけで夜中にコッソリ工事したとかいう話が伝わっている。裏づけとなる資料は無いらしいが、文政の頃の工事に女性が多数参加したことは本当のよう。
さあ、もうすぐ亀山。一生懸命歩いて居ると、福萬寺の前に「もっとも苦しい時こそもっとも辛抱が必要な時である」と、住職の言葉があった。辛抱しても少し歩きましょ。
歩道橋の上でこんなタイルを見つけた。
やっぱり亀山といえばローソクですよね。とは言えあまりに安易な意匠じゃねえか? |
さらに先へ行けば、「南無妙法蓮華経」とお題目の刻まれた碑が。 「髭題目碑」というのがどうやらこれらしい。 日蓮宗徒の谷口法春という人が 刑死者の供養のためにあちこちに建てた。 さらにそのすぐ先には、見なれぬ地名の書かれた道標。 |
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「神戸白子若松道」とある。伊勢道への道標であるらしい。
「東海道中膝栗毛」で弥次サン喜多サンは桑名からお伊勢さんへ行っているから、ちょっと紐解いて見ると、まず彼らは追分から今の鈴鹿市の神戸(かんべ)の宿へ、ついで白子(しろこ)の町で勝手大明神を拝んで香良洲(からす)の宮、神山(かやま)と進んで行くのだが、若松と言うのは何処を指しているのだろう。
σ(^Ω^)はお伊勢さんの方へは行かずに京をひた目指す。ちょっと雲行きが怪しくなっていて不安になってきているのだった。
おっと、久々に「飛び出せボンズ」が…あ、あれ?
版権侵害してるぞ。
かくして和田の一里塚に到着。ここも片っぽだけでした。
和田一里塚。 |
亀山城のタイル。 旅先での楽しみの一つはこんな風に 趣向を凝らしたタイルを収集すること だったりもする。 膝栗毛完結したらギャラリー作ろうね。 |
と、天気はいよいよ怪しい。と、本町三丁目のアーケード街でまたもや版権物の「飛び出せサリーちゃん」がいた。
最近再放送やったのかなあ。 |
ついでにこの辺で見つけたトマソンも 掲載しとく。隣の屋根の影と見紛うほど はっきり残った原爆タイプの物件。 |
というわけで亀山(第四十六宿)到着である。だがここまで来て遂に雨が降ってきた。
いつのまにやら8時を回って、辺りはだいぶ暗い。しかも今日の宿はもう一つ先の関宿の御茶新旅館なのだ。どうしよう…
駅で時間を見ると、電車には一時間ばかり間がある。今更宿をキャンセルする訳にも行かない。
不本意ながらタクシーに乗った。タクシーって速いよね(笑)。関宿に入ると古い家並の所々に灯りがともっているばかり。良い風情のようだ。明日は一度亀山に戻ってまたここを歩くのである。
宿に着けば9時近い。宿の人には迷惑だろうが、やはり風呂とビールは欠かせない。やや急ぎ気味に片付けてくつろいでいると、チャ友のKOUさんから宿に電話が入る。ゆうべ四日市のホテルでMr.JサンにKOUサン宛てに連絡をしといてもらったのだった。
これで京都で落ち合う算段が付いた。良かった良かった。あとは無事に京都三条を目指すのみだ。じゃ、おやすみ。
<おまけ>
御茶新旅館での夕餉。ビール三本。
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<脚注>
1.吾が足は…「古事記」景行天皇の段。<戻る>