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2006-12-04
_ 持ち帰り仕事を持って三重方面へ。
今年は去年以上に出張が多かった。いつも手ぶらでは行かないように心がけているのは、まあ当たり前のことか。
打ち合わせ、スムーズに終わり、特に寄り道もせずに帰宅。
三重県が中部なのか近畿なのかよくわからない。
2007-12-04 お返事。
2008-12-04 カーボン山。
_ [夜へ急ぐ人] カーボン山に初めて登った。
妙蓮寺・菊名近辺の人にはおなじみのカーボン山というところがあって、ここは最近菊名桜山公園となることが決まったのです。この付近にもう15年以上住んでいるというのに、この場所を知らなかったのですが、上記を通知する掲示に描かれた地図を見て、今日の会社帰りに訪ねてみたわけです。
付近はマンションなどの住宅に囲まれているけど丸見えというほど肉薄しているわけでもない。春は桜がきれいなんでしょう。水場もあり、木々の間にいい感じの平らかな地面がある。
まあ要するに、野宿ポイントとしては割と良いかな、なんて思ったわけでして。まあしないと思いますが。でも、エスビットストーブ持ってコーヒーの野点くらいはやりに行くかもしれませんね。
2010-12-04
_ 以前水島広子先生の「国会議員を精神分析する」で触れたが、自己愛パーソナリティの強いタイプは政治家に多い、ということだった。政治家に限らずわたしの身近にも沢山いる。会社の中には沢山の人間がいるので、精神病質人格の見本には、私も含めて事欠くことが無い。技術職である私の職場にも、自己愛の強い人間は何人もいる。私にも自己愛はあるのだが、あいにく現在は自己評価が著しく低いため自己愛パーソナリティの強い人たちの餌食になる危険性を抱えている。つい先日もそんな犠牲になりかけた。不幸なことに、私がその人を避けていることがその人にはわからないらしい。こちらも当人に好意を持っていると信じているようだ。自己愛が強いから。当人は、「自分は人を否定するようなこと言わないよ」なんて言ったりする。自己愛が強いから。そんな人間が自信たっぷりに否定的なことを言うとネガティブな思考が腫瘍のように脳のどこかにへばりいて離れない。トレーニングで汗を流していても体の動きとはうらはらにその人のことばかり考えてしまっていた。
それでも、汗をかくことは良いことだし、その人の否定した私の努力が間違っているとはどうしても思えない。思い返せば、人の失敗をよく笑いの種にしている人物だ。そんな人のことを考え続けるよりも、考えるに値するずっと大切なことが沢山あると気付いた。ゴレンジャーのナゾナゾのこととか、熊野古道の道の確定とか、因果律に支配されない世界の統計学のこととか。自分にとって重要と思えるさまざまなことを思うならば、その人と私の関係など無きに等しい。私は共依存の罠には嵌ろうと思わない。
最後に、この記事を読んでいるあなたが誰であれ、あなたのことを私は言っているのではない、と付け加えておこう。私の言うことが信じられないのなら、あなたのことを自己愛が強いと言っている私の言葉も同様に信じるには値しない。あなたには私の言葉に怒りを感じるいかなる理由も無いはずなのだが…。
2011-12-04
_ うちは汚い。
なんというかモノが多いしけだもの達がいて毛玉の吹き寄せが散在している。そんなわけなのでガスの検診なんかも億劫だったのだが、今日は特に予定が無いので来てもらうことに。人間として最低レベルの掃除をして、調査してもらうと、なんとお風呂で微弱なガス漏れが検知される。その後対処してもらったところ、屋内の栓のグリスアップで解消した。水周りの栓は水が混入することでグリスの減るのが早いらしい。そういうわけで微小リークが解消。いやあ、体とおんなじで定期検査は重要だね。特に費用とか掛からなくて良かった。掃除も大事なんだがな。
_ 今日のゴーカイジャー泣ける。老化のせいで感情失禁が年々きつくなる私は、家族のいない人でつくづくよかったなあと思う。子供と一緒に特撮とか見て号泣してたら家族にどん引きされる。その後フォーゼ。仮面ライダー部今7人。フォーゼ以外宇宙服で月面から地球を眺めてるのを見て思ったのだが、なんでみんな背中に (><)←こういうの背負ってんだろうな。
2012-12-04
2013-12-04
_ とりあえず要件はほぼすべてすましてきたが、行くなり面倒を押し付けようとする糞野郎や何にもしねえのに言葉だけ合わせて無知を偽装する糞野郎にむかむかしてた。帰宅してピエール瀧のしょんないテレビ見て広瀬アナの素朴な反応に和んでるとこ。今年買った一番高い買い物は8000円のバッグだってさ。なんてかわいいんだお前は!2000万円の札束を前にして「何に使いたい?」と聞かれて「お寿司食べます」だってさ。なんてかわいいんだお前は!!!
明日の朝も早いぞ。行けるのか?俺。
2014-12-04
_ 夜をこめて 鳥の空音は 謀るともよに逢坂の関は許さじ
百人一首にもある清少納言の歌。「空音」とは鳴きまねのことだ。
愚かな発言に傷つくのは何故なのだろう?後になってから、過去の自分の愚かな発言で現在の自分が傷つくのは何故なのか。クオリアの同一性を証明できないうちは、前者にはまだ対処することができるかもしれない。
オウムは「オタケサン」と言いながらオタケサンが何者であるかを知らない。感謝知らずの人間の言う「アリガトウ」もせいぜいそれと同じだ。
自然の驚異と言う他無いのだが、感謝の心がこれっぽっちもないにも関わらず、その「アリガトウ」はまるで心からの感謝が込められているように聞こえてしまう。だが気を付けた方がいい。コノハズクは仏心を持たないにも関わらず「仏法僧」と唱えるではないか。本質的には何の違いも無い。つまり、人は必ずしも人ではない。会話は本質的には成り立たないし噛みあわない。ただ、聞くことだけが相手を理解することなのだが、聞くことからは始まらないのである。だから人と人は分かり合ったように思い込むことしかできないのだ。まして、あなたのためを思って、などと、何故そんな大それたことが言えるのだろうか。人は人ではない。あまつさえ獣ですらない。人はその発言の能力においては鳥と何ら変わるところが無い。翼の無い鳥、飛べない鳥だ。そんなものに何の特別な価値があるというのか。わかっているよ、俺は自らにそれがあるとは認めたくない己の愚かさや醜さや個人的な怨嗟をこうして全人類の問題へとすり替えて冷静になろうともがいているのだ。全く美しくは無い。きれいごとでは済まないというのか?だが、きれいごとで済まない世界の方が間違っている。世界が美しいのは、全くもって、そこに人が存在していない時だけなのである。
_ 待ち針買ってきた。これもダイソーにあった。これで適当な当て布になるものを見つけたら、いよいよジーンズの修繕ができる。でもその前にちょっと乳首に刺してみたいような気もする。気だけよ。乳首はツボには違いないが、そこに鍼を打つのはよほどの達人でない限りしてはならないことだ。でも「花と蛇」の中で杉本彩姐さんがやってたみたいだな。見たこと無いんだけど。
_ 記念すべきオムレツ。
なんかだんだんオムレツの画像をアップすることがばかばかしく思えてきた。今日はことの他俺の生き様がばかばかしく思える日だ。そういう日もある。今日のオムレツが何故記念すべきなのかと言えば、先日見つけた裏技に頼らずにできたからなのだ。裏技と言うのは、(1)半生の状態で一度パンからボウルに戻してそこでかき混ぜてエマルジョンのような状態にする(2)返して整形していくときにシリコーンのヘラを使う ということなのだが、今日はなんとなくできるのではないかと思って、フライパンの上でそのままぐしゃぐしゃとかき混ぜて、隅に寄せて手元をトントン…これで上手い具合に返ったのである。ここまでに通算で卵37個くらい使っている。すべて俺が食べた。回数にして18回と言うところだろうか。俺は学んだ。この先ことが上手く行かなかったとしても思い出すべきだ。何度失敗しても最低18回繰り返せば成功するかもしれない。そういうことが過去に一度はあったのだ、と。もちろんその失敗の中で、大いにもがかなくてはならない。このことに思い至った以上は、もはや料理が美味いかどうかは問題ではない。美食を追及することなど愚かな行為だ。
_ [紀行] 俳句紀行シリーズ・海の細道を行く①芭蕉の夢
BRに焼いたのは2012年の10月頃である。俳人長谷川櫂が、大阪で没した芭蕉のその後を追う。遺言に従い淀川を”のぼり船”で遡上し、当時湖南沿岸にあった義仲寺。ここは俺も2度ほど訪れたことがある。ここを墓どころとしたのは芭蕉の弟子たちがこの地に住んでいたからであると長谷川櫂は言うのだが、俺にはもっと大きな疑問がある。義仲寺はもちろん、朝日将軍木曾義仲を祀る寺であるが、ここに”背中合わせ”となるように墓所を定めた理由は何であったのか。武人と俳人(←おお、これだけでなんか日本版剣と魔法のファンタジーになりそうな感じがする。てきとーだが)の取り合わせは奇妙だ。芭蕉は木曾義仲にどのような憧れを抱いていたか。芭蕉の生きた時代の源平の物語はどのように語られていたか。木曾義仲はどのような評価をされていたのか。俺たちにとっての元禄時代と、元禄のころからみた平安末期とを隔てる”距離感”はどれほど異なっているのか。俺たちが芭蕉に抱く純然な文人のイメージは間違っているのか。そんな疑問が沸いて出てくるのである。まあ調べればわかってくることなんだろうけどな。
_ 数日前にNHKラジオで近藤麻理恵が話していて、「片付けの魔法」にかかってみても良いかな、という完全なるキマグレンが生じたのである。古書を買い求め、さらにテレビドラマも見たのだが、つくづく仲間由紀恵の怪演っぷりはもう止めようもないな、と感じ入った。この人はもはや癖の無い普通の女性を演じることなどできないだろう。もちろんそれを求められることも無いだろう。ドラマはあまりにもテレビ向けにドラマチックに盛り立てられていていただけないものだったが、そして役どころを好きには決してなれないものの、「純と愛」の夏菜はそれなりに達者な役者なのだと思われた。しかしドラマに現れる魔法はともかくとして、近藤さんのメソッドはどうだろうか。ひとつひとつを手に取って、ときめくものだけを残す。基本は捨てるで何を残すかを選択する、というそれだ。彼女のメソッドで行くと、決めやすいものから始めて行けばまず衣服、次が本、ということとなる。この場合、残すべきものが捨てるべきものに比べて少ないことを望むのであろうが、こと本に関しては俺の場合はそうはいかない。それはやはり本の特徴故なのだろう。まず愛着という点でいうなら、それは入手しようとした時点で愛着あるものとなり、その愛着はよほど拙い内容でない限り消えることが無い。この本をなぜ入手しようとしたかと言うモーティベーションはいつまでも重要だからなのだ。そして、これまで使い切ったからちゃんとさようならを言って捨てる、という訳にもこれまたいかない。内容を忘れてしまうことも含めて、何度読んでも得るものがあるためだ。つまり蔵書の多くはときめくものになってしまう。どうしても。「捨てる技術!」の人は聖域を作るなと書いたが、やはりそれは捨てることによってそこにまつわる様々な想いも同時に捨ててしまって顧みるなと言うことだ。そういう書物はつまり暇つぶしのための書物であって、それだけを読書と呼ぶのなら俺の趣味は読書だとは言えなくなってしまうのである。読んで読書感想文でも書いたらポイッと捨てられるならいいのかもしれないのだが。俺は過去に目を通した書物は折に触れ反芻したい。それを感じたときにすぐに検索できないほどとっちらかってしまっていることは問題だと思っている。だが、それならないことと同じだ、そう言えるのだろうか。それは問題のすり替えだ。問題は、とっちらかっていて足の踏み場が無いという在宅時に負傷するリスクの問題であり、また欲しい情報に直ちにたどり着けないという実体のかさばる情報データの格納と検索技術の問題なのである。だから、本来技術的に解決されるべき問題なのである。ただ捨てると決めることはテクノロジーではない。そんなわけで、順序はせめて小物類と本は逆にすべきだろうと思う。「いつか読み返すは絶対にない」というのはそういうクオリティの書物に目を通すことを読書と称しているだけのことだ。だが、近藤さんの言う「ときめく」の定義をきちんと行うならば、このメソッドは有効に働くのかもしれない。部屋別で無くモノ別、とか、どんな環境で暮らしたいのかを想像するとか。まあそんなことを修得してみたいように今思っているところ。寒い季節にやれば体力の消耗も少なく済むだろう。魔窟に秩序が訪れても、それは相変わらずきれいに整理された魔窟以外の何物でもないであろうが。
2015-12-04
_ 父母の人々に電話でご機嫌伺い。父の人にはPCのデータ、レスキューできずという残念な報告する。胸が痛むので、NASをストレージとして差し出すことを提案。バックアップとるのに使ってもらう。データ共有にも使えるのでまあそれで何とかしてもらおうということに。
2016-12-04
_ いつもの買い物とは別の、家に一番近いスーパーに出かける。いつものスーパーからの帰りに利用しているバス会社が24時間ストを行なっていたのだ。ストと言う行為はなんだか前時代的で脅迫的な手段と感じてしまった。結局バスを使わずにスーパーを往復することで、やや高くついた買い物と30分弱の有酸素運動を享受するということになった。大ぶりのアジが手に入ったのでやはり圧力鍋で梅煮にする。今日は酒大さじ二杯を加えてみた。なかなかいい感じだ。みりんは無い方が自分好みだな。鷹の爪を一つくらい入れておいても良かった気がする。煮えてから気づいたが、2切れに分けておくべきだった。次は水煮を作ってみようと思う。煮魚を作りながら、もう一方では昼食に食べるラップ用のパンを焼いた。寒いのだろうか、発酵が良く進まないようだった。生地を麺棒で薄く延ばす作業には馴れてきたようだ。湯沸し器の火の付きが悪いので近々ガス屋さんに見てもらわねばならないだろうと思うが、またしても家が散らかってしまっている。ラップに巻く卵焼きなんかも用意して、一通りやりきった感が出たらジムに行く元気がなくなってうたたねの記。
2017-12-04
_ 夜ヨガは急きょ代行の先生だった。以前何度か担当してもらっている。穏やかな時間となった。
帰宅すると、沼昭三さんの「懺悔録 我は如何にしてマゾヒストとなりし乎」が届いていた。もちろん、先日三条友美さんのREBOOTを読んで改めて沼昭三と言う人に興味が湧いたということだ。この人の(性)体験は、おそらくは私如きが到達することのできないとある境地まで行き着いているはずである。ヒマラヤ踏破や北極圏横断にも等しい驚異の旅行記を読むようなものであろうとワクワクしている。そう思ったのだが、ぱらぱらりとこの本をめくってみると、なんと巻末に著者の肖像写真と思しき画像があるではないか!この本は2009年刊、前年に沼さんはお亡くなりになっている。このときにはもう沼昭三は覆面作家ではなくなっていたのだな。思えばこの作家を知ったのは、中学か高校の頃に実家でとっていた毎日新聞の日曜版に連載していた石川喬司の「IFの世界」(記憶では『SFの世界』だと思っていた)で取り上げた記事による。沼さんの小説を角川文庫で読んだのは大学の何年の頃だろう。しばらくは頭を離れなかった。セッチンやメンス・ミゼットたちのことが。博識に圧倒されつつも、よくぞここまで想像の力で書ききれるものだと、打ち負かされたのだったと思う。それは、その後あまり時をおかずに巡り合ってしまった早見純の漫画にも感じたことだった。打ち負かされたのだ、完膚なきまで。大切な経験だと思う。
2018-12-04
_ 何と無くなんだけど、日高のり子と伊藤さやかのことを思い出して検索してみる。日高のり子、「ふたごのモンチッチ」の歌歌ってた。この歌「ふーたーごーのーモン!(ここで切る)チッチー」と言うような歌だったと思う。伊藤さやかは「恋の呪文はスキトキメキトキス」という「さすがの猿飛」のテーマを割とよく覚えているが、それ以上に覚えてるのは、とある、おそらくはNHKのライブ放映で、山下久美子が「もっと声出して」「聞こえないじゃないの」などと聴衆を散々煽ったその直後に登壇して歌った後「今日のお客さんサイコー」と山下久美子に対抗するかのように一言吐いて去った時のカッコ良さ。結局山下久美子も伊藤さやかもファンになったわけではなかったが、伊藤さやかは今一度聴きたい気がしている。
_ 追記。どうもモンチッチの歌のことは誤解してるようだ。日高のり子さんが歌ってるのは私の記憶にあるのとは違うみたいだ。じゃああれは一体…。ああ気持ち悪し。
_ というわけで、眠気を割れせんべいバリバリ食べて紛らわしながら、放送大学量子と統計の物理第10回を視聴。孤立系のエントロピーはボルツマンの式で与えられ、カノニカル分布のエントロピーは分配関数の対数で与えられる。グランドカノニカル分布は各自自習のこと、と。そういえばそんなこと言われてた気もするが、ふうん。つづく。あと5回、年内に視聴だけは済まそう!今日も疲れん坊将軍。
2020-12-04
_ きんやうび。久々の実出社だったのだが、こんな寒い時にどんな格好して電車に乗ってたかしばらく思い出せなかった。なにしろ普段は、家でも外でも、昼でも夜でもジャージ主体だったりするのだ。それにしても、最近ジャージらしいジャージが見当たらなくて購入に迷うよ。夜、ヨーガ。
2021-12-04
_ いよいよ冬らしくなってきた。洗濯(溜まりすぎててまだ終わってない)やら換気扇の掃除なんかやって、字の練習なんかしてるうちに夕刻。もっと明るいうちに始めれば良かったんだけどジムへ行き自主ヨーガと筋トレへ。考えてみれば、昨年辺りは日中ずっと座ってるせいで股関節が痛かったのだが、今そんなことないもんな。これはやはりヨーガの効用だと思う。明日の筋肉痛が楽しみ。その後スミルノフの本開いて螺旋の計算。R-plotlyで描こうとするがなかなか書式を覚えられないし調べ難く進みが悪い。今日はもう止すか。。。
_ ジムの帰り道、ふと立ち寄ったスーパーでは北海道フェアと称して道産品の数々を売っていたのだった。あまり期待せずに覗いてみると、おお、松尾ジンギスカンのラム肉の奴。そしてなんと、最近食べたくて仕方の無かった千秋庵のノースマンがあった!すげーじゃん!5個入りの箱を3個買って、さらにマルセイバターサンドまで買って帰宅。さっそくノースマンを一個食べる。。。!これだ!パイ生地にあんこ。小田原銘菓の「早雲」はクッキーっぽい生地にあんこで、これも美味いので箱根やら湯河原やら中川温泉で遊んだ後に良く買ってくるのだが、ノースマンには中々叶うものではない。今日の私はとってもラッキーマンだった。勉強は進まないけど、もう今日は良い。
_ うにゃにゃ [それはおいしいにきまってる!]
_ けい [推測はそのくらいにしておいてリンクたどってちゃんと見ろ。妙に納得するかもよ。]