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2014-12-04 [長年日記]
_ 夜をこめて 鳥の空音は 謀るともよに逢坂の関は許さじ
百人一首にもある清少納言の歌。「空音」とは鳴きまねのことだ。
愚かな発言に傷つくのは何故なのだろう?後になってから、過去の自分の愚かな発言で現在の自分が傷つくのは何故なのか。クオリアの同一性を証明できないうちは、前者にはまだ対処することができるかもしれない。
オウムは「オタケサン」と言いながらオタケサンが何者であるかを知らない。感謝知らずの人間の言う「アリガトウ」もせいぜいそれと同じだ。
自然の驚異と言う他無いのだが、感謝の心がこれっぽっちもないにも関わらず、その「アリガトウ」はまるで心からの感謝が込められているように聞こえてしまう。だが気を付けた方がいい。コノハズクは仏心を持たないにも関わらず「仏法僧」と唱えるではないか。本質的には何の違いも無い。つまり、人は必ずしも人ではない。会話は本質的には成り立たないし噛みあわない。ただ、聞くことだけが相手を理解することなのだが、聞くことからは始まらないのである。だから人と人は分かり合ったように思い込むことしかできないのだ。まして、あなたのためを思って、などと、何故そんな大それたことが言えるのだろうか。人は人ではない。あまつさえ獣ですらない。人はその発言の能力においては鳥と何ら変わるところが無い。翼の無い鳥、飛べない鳥だ。そんなものに何の特別な価値があるというのか。わかっているよ、俺は自らにそれがあるとは認めたくない己の愚かさや醜さや個人的な怨嗟をこうして全人類の問題へとすり替えて冷静になろうともがいているのだ。全く美しくは無い。きれいごとでは済まないというのか?だが、きれいごとで済まない世界の方が間違っている。世界が美しいのは、全くもって、そこに人が存在していない時だけなのである。
_ 待ち針買ってきた。これもダイソーにあった。これで適当な当て布になるものを見つけたら、いよいよジーンズの修繕ができる。でもその前にちょっと乳首に刺してみたいような気もする。気だけよ。乳首はツボには違いないが、そこに鍼を打つのはよほどの達人でない限りしてはならないことだ。でも「花と蛇」の中で杉本彩姐さんがやってたみたいだな。見たこと無いんだけど。
_ 記念すべきオムレツ。
なんかだんだんオムレツの画像をアップすることがばかばかしく思えてきた。今日はことの他俺の生き様がばかばかしく思える日だ。そういう日もある。今日のオムレツが何故記念すべきなのかと言えば、先日見つけた裏技に頼らずにできたからなのだ。裏技と言うのは、(1)半生の状態で一度パンからボウルに戻してそこでかき混ぜてエマルジョンのような状態にする(2)返して整形していくときにシリコーンのヘラを使う ということなのだが、今日はなんとなくできるのではないかと思って、フライパンの上でそのままぐしゃぐしゃとかき混ぜて、隅に寄せて手元をトントン…これで上手い具合に返ったのである。ここまでに通算で卵37個くらい使っている。すべて俺が食べた。回数にして18回と言うところだろうか。俺は学んだ。この先ことが上手く行かなかったとしても思い出すべきだ。何度失敗しても最低18回繰り返せば成功するかもしれない。そういうことが過去に一度はあったのだ、と。もちろんその失敗の中で、大いにもがかなくてはならない。このことに思い至った以上は、もはや料理が美味いかどうかは問題ではない。美食を追及することなど愚かな行為だ。
_ [紀行] 俳句紀行シリーズ・海の細道を行く①芭蕉の夢
BRに焼いたのは2012年の10月頃である。俳人長谷川櫂が、大阪で没した芭蕉のその後を追う。遺言に従い淀川を”のぼり船”で遡上し、当時湖南沿岸にあった義仲寺。ここは俺も2度ほど訪れたことがある。ここを墓どころとしたのは芭蕉の弟子たちがこの地に住んでいたからであると長谷川櫂は言うのだが、俺にはもっと大きな疑問がある。義仲寺はもちろん、朝日将軍木曾義仲を祀る寺であるが、ここに”背中合わせ”となるように墓所を定めた理由は何であったのか。武人と俳人(←おお、これだけでなんか日本版剣と魔法のファンタジーになりそうな感じがする。てきとーだが)の取り合わせは奇妙だ。芭蕉は木曾義仲にどのような憧れを抱いていたか。芭蕉の生きた時代の源平の物語はどのように語られていたか。木曾義仲はどのような評価をされていたのか。俺たちにとっての元禄時代と、元禄のころからみた平安末期とを隔てる”距離感”はどれほど異なっているのか。俺たちが芭蕉に抱く純然な文人のイメージは間違っているのか。そんな疑問が沸いて出てくるのである。まあ調べればわかってくることなんだろうけどな。
_ 数日前にNHKラジオで近藤麻理恵が話していて、「片付けの魔法」にかかってみても良いかな、という完全なるキマグレンが生じたのである。古書を買い求め、さらにテレビドラマも見たのだが、つくづく仲間由紀恵の怪演っぷりはもう止めようもないな、と感じ入った。この人はもはや癖の無い普通の女性を演じることなどできないだろう。もちろんそれを求められることも無いだろう。ドラマはあまりにもテレビ向けにドラマチックに盛り立てられていていただけないものだったが、そして役どころを好きには決してなれないものの、「純と愛」の夏菜はそれなりに達者な役者なのだと思われた。しかしドラマに現れる魔法はともかくとして、近藤さんのメソッドはどうだろうか。ひとつひとつを手に取って、ときめくものだけを残す。基本は捨てるで何を残すかを選択する、というそれだ。彼女のメソッドで行くと、決めやすいものから始めて行けばまず衣服、次が本、ということとなる。この場合、残すべきものが捨てるべきものに比べて少ないことを望むのであろうが、こと本に関しては俺の場合はそうはいかない。それはやはり本の特徴故なのだろう。まず愛着という点でいうなら、それは入手しようとした時点で愛着あるものとなり、その愛着はよほど拙い内容でない限り消えることが無い。この本をなぜ入手しようとしたかと言うモーティベーションはいつまでも重要だからなのだ。そして、これまで使い切ったからちゃんとさようならを言って捨てる、という訳にもこれまたいかない。内容を忘れてしまうことも含めて、何度読んでも得るものがあるためだ。つまり蔵書の多くはときめくものになってしまう。どうしても。「捨てる技術!」の人は聖域を作るなと書いたが、やはりそれは捨てることによってそこにまつわる様々な想いも同時に捨ててしまって顧みるなと言うことだ。そういう書物はつまり暇つぶしのための書物であって、それだけを読書と呼ぶのなら俺の趣味は読書だとは言えなくなってしまうのである。読んで読書感想文でも書いたらポイッと捨てられるならいいのかもしれないのだが。俺は過去に目を通した書物は折に触れ反芻したい。それを感じたときにすぐに検索できないほどとっちらかってしまっていることは問題だと思っている。だが、それならないことと同じだ、そう言えるのだろうか。それは問題のすり替えだ。問題は、とっちらかっていて足の踏み場が無いという在宅時に負傷するリスクの問題であり、また欲しい情報に直ちにたどり着けないという実体のかさばる情報データの格納と検索技術の問題なのである。だから、本来技術的に解決されるべき問題なのである。ただ捨てると決めることはテクノロジーではない。そんなわけで、順序はせめて小物類と本は逆にすべきだろうと思う。「いつか読み返すは絶対にない」というのはそういうクオリティの書物に目を通すことを読書と称しているだけのことだ。だが、近藤さんの言う「ときめく」の定義をきちんと行うならば、このメソッドは有効に働くのかもしれない。部屋別で無くモノ別、とか、どんな環境で暮らしたいのかを想像するとか。まあそんなことを修得してみたいように今思っているところ。寒い季節にやれば体力の消耗も少なく済むだろう。魔窟に秩序が訪れても、それは相変わらずきれいに整理された魔窟以外の何物でもないであろうが。