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2009-03-12 正しい扉。 [長年日記]
_ [漫画・アニメ] ソウルイーターの録画を見てる。
1/23に放映してたやつ。つぎはぎだらけのシュタイン博士が、狂気に取り込まれそうになった挙句、子供時代の自分と出会う。子供のシュタインは、現在のシュタインに告げたのだった:
「だから僕を呼んだんでしょ」
そして迷いの中にある大人のシュタインに道を示すのだった:
「正しい扉を明けて出て行くんだ。君の求める世界が待っている」
と。大人のシュタインにとって、出て行くべき扉はその時ただ一つに決まったのだった。。。
やはり良いな、「ソウルイーター」。期待を裏切らない裏切り方だ。
_ こういうご時世になると。
危機意識とパニックを取り違えて上から下まで浮足立ってしまうわけで。それでおのれらだけが浅ましさをさらしているだけなら目をつぶってやり過ごすこともできるのだが、そんな奴らがよりによってこの俺の有様や行く末にまで干渉しようとしたり、「君の今後の人生を思えばこそ」的なことを言いながらその実思いつきの支配欲を満たす快感に溺れていることを自覚できていなかったり。でも確かに世界の物質的な相はそういうもので左右されていたり。
そうなるともうホントに私たちはサイコスフィアとか人間のいない世界に逃げ出す他はない。常識的な世界、常識的であることが唯一正しい行ないである世界、原始的な能力だけがキー・オブ・ライフであり続ける世界。自然科学上の法則だけが法律足り得る、厳しく、そして絶対的に公平な世界、極地のような、清浄な世界へと。
まあ、どこに行こうと自分であり続けることをやめることはきっとできないんだと思う。そうじゃない自分になるということはどんなに苦しいことだろう。
なんか人の悪意だけがピリピリと感じられてしまう。きっと、松本清澄の小説を読んでるせいだ。松本清澄は嫌われ者を描かせたら天下一品、と今感じている。
_ ひだまつりについて。
「三月三日はひだまつり」ってことですが、今やケン月影ではなくて「ひだまりスケッチのおまつり」ってことになっちまっているようですな。怒れよケーン! 暴れろケーン! 進めむっちり臀部のケンー!
ケン月影の描く女性はまさに「太り肉(じし)の婀娜(あだ)な年増」だぜ、ちっくしょうべらんめいやりてい。
_ [統計学] 大急ぎで付け加えておかなきゃいけないこと:管理図について。
「管理状態にある」ということはすべての点が管理限界の内側にあるという意味では無い。しかしこのことは多くの人によって誤解されている。
管理図の世界における「管理状態にある」ということは、(たとえば)99.7%以上のデータが管理限界内にある、ということだ。もっと言うなら、データがとある平均値と分散で特徴づけられる正規分布とかポアソン分布に従っている、という約束事に他ならない。
つまり、0.3%のデータは管理状態にありながら偶然管理限界を超えてしまう、ということなのに、実際のところそれを意識している人は少ないのではないのか??そして言うのだ。「管理限界を越えたのだからなにか異常なことが起こったのだ」と。「本当に異常なことが起こった」から管理限界を超えたのか、0.3%の確率ではみ出したにすぎない正常なイベントなのかを突き詰めることは、管理図を正しく理解している人でさえ調査しようとはしていないだろうから。そしてそれは手間のかかることであり、シューハートの思想からは外れてしまうことなのだから。
良く似た誤解の例には、抜取検査をしているというのに(そして自ら”サンプリング検査”と呼んでいるにもかかわらず、だ!)そのことをすっかり忘れてしまって、「なぜ全体が見えていないんだ?なぜ見逃すんだ?」と怒り出す人がたくさんいる、なんていうのがある。
リスクというのは危険な事象がおこる確率なのであって、リスク低減はあってもリスクが恒等的に0にはなりえないのだから。このこともリスク管理をやかましく言う人ほど誤解しているのではないか?
こういう誤解は文化の問題として解いていかねばならない。それほどに根が深い。因果律だけが世界を支配しているのではないということは、量子力学やユング心理学を学んだ人でさえ十分に理解しているとは言えない。概念を理解できても実感としてはやはり了承しにくいものなのだ。21世紀の現在であっても、たぶん。それほどに因果地平は遠い。ソロシップのクルーでもたどり着けなかったほどに。
はいはい、最後はどっちみちオタクネタですわ。