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けいりう堂日記

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2015-06-06 [長年日記]

_ [放送大学] 建築/ランドアート/環境(1日目)

榑沼先生の面接授業「建築/ランドアート/環境」1日目。いつもの感じでスタートする。この授業は映像を多用するのだが、神奈川学習センターの設備は今一つその内容に見合うものではないようだ。国内を多く旅して多くの建築が目に入りはするが、ちょっとすごいなあくらいは思ってもその意図とか意味とか解釈に踏み込むことはしないでいた。それは芸術に対しても同じで、俺にはこういうものを愛でる審美眼と言うものは無いと思っている。有名な絵画を前にして何かを語ろうとしても、そこにある色や線、モチーフと言った素材的なことを語ることは俺にはできるかもしれないが、そこにあるものだけでは、その作品の意図についてまで語ることはできない。ぽんと一つの作品を目の前に放り出されたときに、そこからこれは素晴らしいとかなんとか言えるような目が利くようになるためには、それが作られたときや場所や作風などから膨大な背景情報を脳内や参考資料、場合によっては(というよりもこれが一番多いかもしれない)他人の言葉を引っ張り出してくる必要がある。そんな背景情報が無くともその作品の良し悪し(と言いつつその”良し悪し”の尺度もわからないのだが)を語れる人がいるようだ。それがどうやら審美眼というものではないかと思いはするのだが、そんなものをどうやって信じたら良いのか。こんなわけだから贋作が人を傷つけることは大いにまかり通るのだし、流行り廃りと言うのも真贋の間をおぼつかなげにうろつかざるを得ない人の能力の限界ゆえのことで仕方ないと思う。俺には審美眼が無い、と俺が言うのは、芸術や建築の意匠を前にして健全で自分を偽らずに済むほぼ唯一の方法だろう。今回の授業でも多くのインデクスを手に入れることとなる。映像作品は買うと高価なのでなかなか苦労だ。


_ 授業中、ギブソンのアフォーダンスという概念の紹介があった。短い引用からその意味を正確にとらえることはできないが、その中に環境と言うものはミリとかメートルくらいのスケールで知覚できるものに限定されるというような主張があった。俺はこのことに違和感を感じた。ミリやメートルのようなサイズの限定は技術の進歩によって新たな観察手段を使いこなすようになれば取り去られていくかもしれない。ただ、新たな観察手段で見たものを環境の一部であると実感できるようになるためには長い時間がかかるかもしれない。新たな手段で観察されたものは、その解釈(それは芸術作品の鑑賞のように意図を解釈するということでなく、そこには何が映っているかということを解釈するのだ)が困難なのである。水中の花粉を光学顕微鏡で観察したロバート・ブラウンは、花粉が不規則に動くのでそれが生命現象であると解釈した。そうすると、意志によって運動するはずの生命体はなにやら顕微レベルでは規則的ではない動きをするものから構成されているということになり、不規則運動を意図ある運動に転換する原理は何か?などというあまり意味の無い議論をしなくてはいけなくなるかもしれない(ブラウンがそんなことをしたかどうかは知らない)。ウィキペディアによると、この話には二重の誤解があるようだ。一つは、ブラウン自身が冒した誤解であり、彼の見た不規則運動は熱運動の反映であり生命現象とは関係が無いこと。もう一つの誤解は、彼の観察したものは花粉そのものではなく花粉が観察試料中で破砕して溶けだした、より細かい粒子であったこと(不規則運動のもとである水分子に比べると花粉そのものは10万倍くらい大きいのでそれ自体揺り動かされはしない)。このエピソードの後世への伝搬の際に大きく流布してしまった誤解である。ともかく、こういう誤解を乗り越えないと新たに観察された事象を自らを取り巻く環境の一部ととらえるものの見方はできないだろう。1827年のブラウンの観察から1907年のアインシュタインのブラウン運動の理論まで80年掛かっている。実用的な電子顕微鏡が発明されてからギブソンがアフォーダンスと言うまでの間には40年くらいと思われるから、ギブソンがナノメーターの世界を環境から排除したのは仕方の無いことだ。だが、解釈の困難を乗り越えて仮にサイズの制約を環境の定義から取り去ったとするなら、ギブソンの言っていることは要約すれば「知覚できるものだけが環境である」ということである。それはひどく当たり前のことで、知覚できるということは何らかの手段で対象と関わることができることだから、我々に何らかの影響をおよぼすものごとを広く環境と呼ぶのなら、ギブソンは実は環境の定義に対して何も言っていないのと同じだ。彼は何故改めて「環境の再定義」をわざわざ行なったのか?引用が短いので、このようなツッコミに相応しいことをギブソンが議論しているかどうかはわからない。

映像資料として、イームズの”Powers of Ten”(これは会社の同僚が以前紹介してくれたので見たことがあった)と、”Blacktop”という映像を見た。後者は校庭のアスファルトの上に水をいろんなやり方で流して、その広がり方の複雑さをえんえん写したものだ。初めは少量の水、のちには大量の水を一度に流し気泡が含まれていたりする。レオロジーと言うよりもソフトマターの物理現象と思われた。アスファルトを避けて校庭に引かれた白線の上を沿うように流れる水の映像があった。ガラスが汚れているとその上をつたう雨だれは汚れを避けるように流れる。清浄なガラスは通常水滴を一滴たらすと球形にならずに薄く広がる。その水滴の載った部分を適当な倍率で真横から見たなら、液滴の液面とガラスの表面のなす角度は非常に小さいだろう。10°以下だと言われている。その液滴の表面とそれの載っている基板表面のなす角度のことが接触角であり、大きいほど濡れにくい。テフロンの上に水滴をたらすとそういう状況になり、しずくは玉のようになる。程よく濡れているときに横から観察すると液と基板の二つの境界は液滴の端の点で出会うように見えるが、それを再び真上から観察すれば、それは液滴で濡れた部分とそうでない部分を分ける閉じた境界線となる。それを「コンタクトライン」と呼ぶのだが、誰がそう呼び出したかはわからない。俺はソフトマターの物理でノーベル物理学賞をとったド・ジャンヌ先生(故人)が、受賞後に書いたReviews of Modern Physicsで知った。
 

先ほどの白線の上だけを選択的に広がる水は、コンタクトラインピンニングという現象と関係している。水滴が汚れた部分を避けるように流れるのは、濡れやすい界面で広がる方が濡れにくい界面で広がるより少ないエネルギーで済むからなのである。だが、流す水の量がもっと増えていき、水の層の厚さが篤くなっていけば、大勢はそんな境界付近のことなどどうでも良くなり、今度は粘性と質量を持った液体がそれぞれの部分でどんなふうに変形するか、あるいは移動するかといういわゆる”流体”の物理現象へと移っていく。一応そんな風に現象に関係する物理法則はあるのだが、そこからの帰結は一意に見えない。変形するものの記述は難しいのである。だから昨今の天気予報の的中率の高さは実に驚きべきものなのだ。というわけで翌日に続く。


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