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2020-02-05 [長年日記]
_ 『バッハ小伝』さらに続き。ついつい忘れそうになるが、著者のフォルケルはほぼ大バッハの、より詳しく言えばその子供たち、例えばC.P.エマニュエル・バッハの同時代人であって、少なくとも著作の対象である人物に直接触れ合った人々の言葉を参照して書くことのできる立場の人であった。時代が日本においては江戸期という大昔である、ということよりもこのような同時代性という時間感覚を念頭において読むべき書物なのだと思う。例えば私たちの時代に比していうなら、私はエルヴィン・シュレーディンガーが没して間もなく生まれたのだが、彼自身の人となりよりも彼の産んだ偉大な作品、すなわち波動力学を介して彼の名を知るものである。量子力学の本を読んだ人よりも、何冊もあるシュレーディンガー自身の思想を記した本を読んだ人は、おそらく多くないだろう(ただ、そのような本の中にはバイオテクノロジーの誕生に強く影響した『生命とは何か』という名著もあるから、専門分野によっては読者層の内訳は大きく変わるかもしれない)。そしてさらに、客観的にシュレーディンガーの人となりを記した書物に触れた人はずっと少ないだろうと思う。ちょうど、大バッハの音楽に触れた人(これはクラシック愛好家に限ったことではない。映像作品には現在も彼の作品の断片が利用されているし、その旋律から新たな歌を作るミュージシャンもいる)に比べてその人となりを記した書に触れる人はずっと少ないのと同じように。フォルケルが『バッハ小伝』を書いた時代の感覚はこんな感じのもので、そこにこの書を読む意義があり、同様にムーアの書いたある意味スキャンダラスな内容を含むシュレーディンガーの伝記にも大きな価値があるのである。
_ 全く関係ない話。大久保桜子と大原櫻子を完全に取り違えてた。