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2009-02-03 『御伽草子 下』、読了。 [長年日記]
_ [読書] 『御伽草子 下』読了。
喉がしんどいんですけど、単に空気が乾燥してるせいですかね。
というわけで下巻も上巻同様テントの中で読むことが多かったので、カパカパに成り果てました。
<メモ>
『二十四孝』この話、初めてまとめて読んだが、老萊子の話だけは知っていた。七十になっても幼子の恰好をして自分よりも老いた父母の前で赤子のように泣いたりしたという。自分が老いたことを父母が悲しまぬように、そして父母が老いを自覚しないようにそうしたのだ、と書かれている。いつか機会があったら実践してみようかな。あと、三国志演義で諸葛孔明に馬鹿にされた陸績の蜜柑泥棒の話も出てた。
『梵天国』「さもいとけなきときよりも、月毎に、七日の歩みを運び奉りつる御利生に、今一度今生にて、姫にあはせてたび給へ。迚(とて)もの対面かなはずは、命を召して、後生の縁となしてたべ」音曲、特に笛の上手は荒き魂を鎮め、冒険に安全をもたらす。『御曹司島渡』でも同種の趣向があった。
『猫のさうし(草子)』「われは是天竺、唐土に恐れをなす、虎の子孫なり。日本は小国なり、国に相応してこれ(=猫)を渡さるる。その子細によって日本に虎これなし。」
『浜出草紙』「あらおもしろの谷々(やつやつ)や。春は先ず咲く梅が谷、続きの里ににほふらん。夏は涼しき扇が谷、秋は露草佐々目谷、冬はげにも雪の下、亀がへが谷こそ久けれ。/遥かの沖を見渡せば、船に帆かくる稲村が崎とかや。飯島、江の島続いたり。…」これは鎌倉の名所を織り込んだ歌で、唐糸草子の唐糸の娘の万寿も同趣向の歌を頼朝の前で歌っていた。「酒にあまたの威徳あり。うとき人さへ近づき、親しき中はなほ親しむ。遠近(おちこち)の、たつきも知らぬ旅人に、馴るるも酒の威徳なり。」これは酒飲みの自己弁護に使える言葉ですね。
『和泉式部』近親相姦もの。母と知らずに式部の気を引こうとした道命阿闍梨18歳くんの、恋の数え唄。「一(ひとつ)とや、ひとりまろ寝の草枕袂しぼらぬ暁もなし 二(ふたつ)とや、ふたへ屏風の内に寝て恋しき人をいつか見るべき 三とかや、見ても心の慰までなどうき人の恋しかるらん 四とかや、夜深に君を思ふらん枕片敷く袖ぞ露けき 五とや…」いかに聡明な坊主と言えど盛りのついた男の子の情熱たるや。口説かれたいという女性はこういう男の必死な滑稽さを見て満足を得るのでしょうか。
『浦島太郎』乙姫が出てこない!そしてなんと助けたカメが女房になる。パロディと言うわけじゃないんだろうな。玉手箱明けたら太郎はおじいさんになってから鶴になる。まあそういうわけで鶴亀だからめでたいんじゃないの?みたいな話。
『横笛草子』「人をとがむる里の犬」この言い回しもちょっと良いから、今度ウォーキングで犬にほえられたらつかっちゃおう。
『酒呑童子』「村岡のまさとき」なる陰陽師が登場。別のテキストでは阿倍晴明だったりするらしい。村岡某という人は聞いたことないよ。
頼光一行は酒呑童子のすみかへ、修験者の恰好で向かう。童子ははじめはかむろ頭の人間の姿で、血の酒と、捕らえた姫の手足を肴に一行をもてなす。一行はこれをためらうことなく口にする、とある。身分がばれないための苦渋の行為ともとれるが、鬼をも凌駕するツワモノとしての表現であるのかもしれない。まあこういう引っかかるところに新規な解釈をしてみてなぜそうあるべきだったのかを象徴として捉えてみたら多少評論っぽくなりゃしないか。別にそうでもないか。