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2011-10-30 [長年日記]
_ 「カーネーション」の録画を昨日から見続けているのだが、ヒロインの糸やん、声が悪いな。お父ちゃんも家族には威張り散らして、実に気に食わない。岸和田の男ってみんなこんななのか?
_ 今朝、近くの寺に初めて坐禅に行ってきたのだが、未熟な私にはそれが良く思われなかった。只管打坐しましたとかヴィパサナをやったとかチベットに行ったとか無になれたとか坊主の説教を聞いたとか、それを行なったというだけで精神のステージが上がるというわけではどうやらなさそうだ。徳高い説法や神秘的な環境はそれはありがたいものだろう。そうそうあるものではないという意味で有難いに違いない。だが、それに接したことは思いを振り返るきっかけに過ぎないのであり、悟りと後悔を毎日繰り返すことが修行そのものなのではないか。それは長い道のりであり、いつのまにか立ち居振る舞いに現れるがゆえに、自分のステージを確認することは極めて困難だ。だから増上慢に陥るのである。私には動禅が好ましい。正しい習慣を獲得すると、肉体には必ず目に見える変化が現れる。健全な体であることは正しく考える上での近道たりうる。もちろんそれもきっかけに過ぎないのだが、精神性というエビデンスの示しにくいものよりは自己の改善のマイルストンとして捉えやすい。そしてその修養は精神を鍛える上では極めて遠回りなことであると自覚しているのであれば、いわゆる増上慢に陥るリスクは少ないのではないかと思うのである。
誰よりも熱心に説法に耳を傾けること、毎日陰徳を積んでいること、朝の坐禅を欠かせないこと…全て立派なことだ。しかしそれらは悟りや安心を得るためのチケットではないのであるし、日々の修行がどのように自分を変えているかという実感のある方法の方が、自分の如き凡人にはわかりやすい。私はおそれているのだ。義人ヨブが最後にそうできたことが私にはできないだろう。いと高い存在を信じ、それに尽くした挙句突然の不幸に見舞われたなら、私は必ずそれを屈辱と思い恥と思い裏切りと思い怒り泣き叫び呪うだろう。そのようないと高き存在と対峙したときこそ信仰が真に試されるときである。
壁に向かいながらそんなことを考えたわけではなかったが、「是非またどうぞ」というような勧めはありながら、違和感を感じたのはそんな部分にもあったかもしれない。この方法で信仰に向き合うことは私にはできなさそうなのだ。そういうわけで自分には動禅すなわちヨガの方が合っているような気がする。日曜の朝2時間強という時間の使い方としてこれよりも先になすべきことがあるように思えたということもある。作務でさえそう、寺を掃除するよりも先につまらないお宝で溢れかえった自分の部屋をこそ浄化すべきなのである。粥に手を合わせるよりも、いかに手をかけずに望ましい栄養を自ら選び調理し欠かさず食すか、そのようなものにこそ修行の本質があるように自分には思われるのである。私には仏縁は無かったようであり、仏も「度し難し」とおっしゃっている。
街道の手ぬぐいと風呂敷。街道の起点、日本橋であります。
_ 「カーネーション」第12回見てる。糸やん男前じゃん、というか女極道。極妻の次の主役を狙ってんじゃねえのw