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2023-04-09 [長年日記]
_ 昨日は結局カツ丼を昼飯に食べてから放送大学のセンターへ行ったり、そのあとジムに行ったら雨に遭ってしまったり、帰り道のラーメンの誘惑に打ち勝って銭湯で散々炭酸泉に入浴したり、キッチンで寝落ちしながら論文読んだりして、まだボビー・コールドウェル追悼の夜とはならないのであった。ポール・ランジュバンの仕事に触れなんとする夜。この大学者の名前は、高分子のゴム弾性の理論で学生時代に知ったのだった。逆ランジュバン関数をテイラー展開した最初の数項を求める計算を習った記憶もある。違う分野で、あれからかなりの時を経てまたこの人の仕事に触れる機会が訪れようとは。
_ で、そのランジュバンの論文は、1905年に発表されたものなのだが、実はこの原論文にはフランスの国立図書館の電子図書館であるガリカというサイトで閲覧できてしまうのである。当たり前のようにフランス語で書かれているが、他の一般的な教科書で良く見るような図が描かれていたり、この手の仕事の草分けであるボルツマンの本が参照されていたりして眺めるだけでもちょっとイイ。ランジュバンがボルツマンを参考文献に載せている、という事実は、学生の頃に使った教科書にあらわれた彼らの名前が、決して呪文や記号ではなくて実在した人の名前なのだと分からせてくれる。ボルツマンの行った計算をリファーするにはそのボルツマン自身の論文を、ランジュバンの理論をリファーするには当のランジュバン自身のかいた論文を、直接読んで参考文献に挙げれば良い。物理学辞典の記事を孫引きするようなことをしなくても良いのだ。学生時代には、自分の論文を書くのに使った実験器具が100年前に考案されたものと知って、何か誇らしげにその100年前の論文を参考文献に載せた。そうすると、自分のささやかな業績も確かに巨人の肩の上に立って見出したものであると実感することができた。装置の挿絵は丁寧なペン画であり,それが単に絵画としてもなかなか良いと思った。学究としては余りにも小物すぎる自分ですら、過去の偉人たちの業績を元にして何とか口を糊することができたりするのだからこのようなことに敬意を払うのは馬鹿にしたものでは無いのである。だから、読んでもいないのに参考文献の数を水増しして持論に箔をつけようとすることは絶対にできない。そして本当にそれを参考文献として挙げるためには、フランス語だろうとドイツ語だろうとサンスクリット語だろうと、何とか苦労して読めなくてはいけないのだ。僕の抱く彼らへの敬意は、しかしながら、遠からず顧みられることのないものになってしまうかもしれない。自らが何冊もの決して安くない語学辞典を用意して、100年以上前に書かれた古文書(100年前の言語なのだ。古文書と言ってもあまり問題は無いだろう)を解読するようなことは生産的であるとは考えられなくなるだろう。これは、計算機を使うコストが圧倒的に低くなり、これまでは知的作業と思われていたものの多くを計算機に任せることができるようになったためである。この流れは否応無く広大なものになっていく。AIの誤りを見破れることがリテラシーである、などという議論もすぐに時代遅れのものとなるだろう。けれども僕には確信のようなものがある。交通の技術の発達した今においても、ひたすら徒歩で道の上を歩いて行く旅には、とてもひと言では言えない大きな価値がある。これと同じようなことが知的活動においても、永遠に失われない価値として存在し続ける。僕の回答はそういう歩み方の中にあるはずなのだ。