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2005-10-18 街道と海道/『日本国語大辞典〔第2版〕』が欲しい。
_ 「道」と「旅」の語源・初出などに関する記述を以前読み、じゃあ「街道」の初出はいつ頃になるのだろうと気になって図書館に行った。
交通史関係の本を書庫から7冊ほど出してもらう。書架からも7-8冊ほど持ち出してざざざ…と見ていくが見つからない。ふと気づいて、「字源」「日本国語大辞典〔第2版〕」などで調べる。引例に引かれている文章は、辞書の編集方針にもよるのだろうが、どうやら多くの場合はその語が用いられている書のなるべく古いものとなっているようだ。つまり引例が出ていればそれがほぼ初出ということになるだろう。もっともすでに失われた書物を対象としていないから、真の初出かどうかはわからない。いろいろな本に、文献を引いて「これが初出」と言っている場合にもそういうことはありえると思う。
で、「街道」についてだが、もとは漢語で街を通る広い道というほどの意味らしく、その”初出”は北魏書ということだから西暦554年。しかしこの言葉がそのまま日本で使われたと言うことではないようで、古代七道中「海を通る道」を意味する「海道」の語がその後幹線道路一般を指すようになってこの語と混用されるようになったようだ。その意味での日本における「街道」の初出というか最も古い文書は、謡曲「遊行柳」なのだそうだ。遊行柳は奥州道中芦野宿にある。そうかそうか、今度は謡曲を紐解くことになったわけか…。明日は無残業日だからまた帰りに図書館に行こう。
というわけで、初出や用例の豊富な”ちゃんとした辞典”が欲しいなあと思い始めた。『日本国語大辞典〔第2版〕』(小学館刊)は全14冊で一冊15750円。全巻そろえると220500円だ。ヒト財産だなあ。「街道の日本史」全巻揃えるどころの騒ぎじゃないじゃないか。置き場も問題だ。さあ、どうするか。
_ 横浜市立図書館のインターネット予約
横浜市立図書館ではインターネット予約が10月からできるようになった。
今日行ったついでに尋ねてみると、自宅のPCで手続きができるらしい。
使ってみると非常に便利なことがわかる。
借りている本がすでに期限過ぎてることや、期間延長の手続きもPCでできる。
で、自分のを確認してみると、ああっ!しまった…。
明日返しに行きます、ごめんなさい。
2006-10-18
_ 猫の額いじり
久し振りに午後出社にして、午前中少し小さな庭をいじる。玄関先の通路を挟んで二箇所に分かれた猫の額の土壌はそれなりに良い。近所に貝塚があったというから縄文海進の頃は波打ち際だったのかもしれないが、掘り起こしても往時の遺物が出てくるということも無い。
月曜に買った球根、アネモネとフリージアを植えて、ヒヤシンスは水栽培にした。夏ごろ掘り起こした水仙の球根も植えた。
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小さい方の猫の額に植わっている植物:
・キャッツミント(古株。手間無しで増殖中)
・浅倉山椒(実山椒と聞いて買ったが実はなっていない)
・コリアンダー(哀れにもひょろっと一本だけ)
・マロウ(アオイ。本当はマロウブルーが欲しかったがピンクの花。花の時期いつだか忘れた)
・ラベンダー(ブルーとピンク。花が終わった頃から大量増殖の気配)
・アネモネ
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大きい方の猫の額に植わっている植物:
・イヌツゲ(ただそこに在るという感じでわたしが越してくる前からある)
・水仙
・フリージア
・山椒二株(一つは斑入りの葉で、常世虫には人気が無い。いま一つは苗木のときから実を持っていて、この実が今赤く色づいている。良く見るとミニミニみかんという風情で、実は見た目にも面白いものだったのだと知る)
・サフラン(元気に芽が出てきてブイヤベースへの期待がいやがうえにも膨らむ)
・梅(越してきたときに植えた。植えて3年目まで花が咲かなかった)
・ブッドレア(ピンクの花。今もまだ少し咲いているバタフライブッシュ)
・ルピナス(昇り藤。何度か早春に蒔いたが一度も花を咲かせたことが無い。今年は早秋に蒔いて現在芽が二つ。発芽率が悪いの。寒いところで良く育つ。北海道に住んでいたときの幼少の頃の記憶に結びつく花。楽しみ。)
・リコリス(赤。所謂彼岸花だが、以前植えた球根はその年は葉だけを伸ばし、開花したのは翌年だった気がする。今年植えた球根も彼岸に間に合わず葉だけが伸びている)
・リアトリス(7mmくらいのすっくと伸びた茎に夏ごろ紫の花をつける。今は枯れている。最近株を分けてみた)
・バラ(全く手入れをしていないのに健気に生きている。レッドデビルという種類。ずっと同じところに植えているためにあまり元気でない)
・ローレル(月桂樹。これは植えたときから自家製スパイスとして即戦力になっている)
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庭いじりをしていると小さな「気づき」が沢山ある。またこれは短くても半年という時間のかかる実験の場でもある。この、農事に関する実験が持っている「期間の長さ」という本質的な問題は統計学者R.A.フィッシャーが実験計画法を生み出すための強い動機だった。
2010-10-18
_ [新聞を読んで]
日記の更新が続いているとついついカテゴリを増やしてしまう。今日の日経は久し振りに印象的な記事が多かった。今回のノーベル賞の快挙の影響で「わが社は以前から基礎研究の重要性を認識しており…」のような記事もあったがくどくどしければりゃくす:
・ブータンでは経済指標として「国民総幸福量GNH」を使っている。2年ごとの聞き取り調査で人口67万人中8000人程度のデータを集める。一人当たり5時間もの時間をかけて面談をしてデータをとるということで、そのコストも結構なもんだろうと思う。これを年ごと・地域ごと・年齢層ごとなどで比較するといろいろ面白いらしい。どの地域のどんな人が怒っているか、あるいは慈愛に満ちているかなんかを知るんだそうだ。何年か前の放送大学で受講した経済学入門で、林先生が幸福の度合いは数値化できるという講義をしていたのを思い出す。いろんな集団を比較するのに幸福量を使うのは意義がありそうに思える。企業間や組織間の従業員とかね。
・今年のノーベル経済学賞は「サーチ理論」の開拓者たちに贈られた。売り手と買い手が財の取引の際に交渉を重ねる仕方を扱うようで、たとえば失業保険という本来失業者を救済する仕組みがかえって失業を続けることを助長しうる、というような計算ができるらしい。売り手と買い手がそれぞれ単独の場合でも初期条件に依っていろいろなシナリオが表われそうに思える(私は頭の中で今ライフゲームを想像している)が、それぞれ複数になるとどうなるのだろう。"単純な法則が非常に多くの複雑な状態を示す"というのは非常にあり得ることだ。
・ブノワ・マンデルブロ先生が亡くなった。フラクタルという概念は自己相似的とか特徴的長さが無いとかいう奇妙な構造が実は至る所に見られるというその外見的な特徴ばかりでなく、まさに(ジェネレータと呼ばれる)単純な規則が非常に複雑な構造を生みだすというダイナミックな面もその魅力と思う。私のD論がなんとか無事にまとまったのも実はこの人あってのおかげだったりするが、あれから遥か20年後の今であっても、市場の失敗の原因をノンノーマルな市場の振舞いに求める経済物理学の誕生に感銘を受けて間もない。死因はすい臓がんとのこと。享年85歳。ご冥福を…。
_ [東海道] 「街道てくてく旅。東海道五十三次完全踏破」(DVD)第1巻を見終える。
昨日の日記に書き忘れたけど、上の歯の治療を受けてやっぱり違和感があってもちゃんと義歯は入れとかなきゃ、と張り切って義歯を装着したら高さを調整するためにレジンを盛った部分がポロリと取れた。急遽歯医者を予約して、今私の口内は大変不安定です。こういう事件は食欲にも少なからず影響を与えてしまうのだが、なんか風邪のまえぶれのようなヘンな調子を感じているので、なんとなくもつ鍋を食べるのが良いのじゃないかと思って食しつつテルの出てる件のDVDを見た。最初の方はしんどそうだったテルも藤沢を過ぎたあたりから旅を楽しむ余裕が見えはじめたようだった。飛び込んだ楽器屋でリチャード・クレーダーマンを弾き出したのにはびっくらぎゃうてんだ。しかも数十秒間BGMに使われてたほどちゃんと弾けてた。
特典映像に、旅の準備のことが録画されている。足に故障のあったテルのために負担の軽い歩き方をコーチしたり、体にあったインソールを用意したり、東海道の成り立ちなどを座学で学んだり。シリーズの他の旅ではこの様子は明示されていなかったような気がする(てっしーが甲州街道を歩く準備のときにカメラの撮影の仕方を習ってた、というのはあったけど)が、おそらくみんなこういった準備をしているんだろうと気付いた。このシリーズの旅人の体は日本の宝みたいなもんだろうから。番組で壊しちゃまずいですもんね。
あと、映されている人もさることながら、撮影隊の一人が無理して肉離れを起こしたという笑えない(笑ったけど)ひとコマもあったりして。ドキュメンタリーとかサイコロの旅の類を見てていつも思うのは、映ってる人もさることながら、重たい機材を抱えて被写体とほぼ同じ険しい道を進む人こそ称賛に値するのではないかということ。映し方によっては、被写体以上に危ない所に立っているのではないかなんて思うこともある。
当然DVDは第二巻に続く、ということになる。
_ [食べ物・飲み物] 五目豆・その後。
週末にまた五目豆を煮始めた。材料を買いそろえたつもりでなぜか2番目に重要な材料であるひじきを買っていなかったことが判明して、ひじきだけ1日遅れで投入した。今日も帰宅してからしばらく煮込んでいたのだが、ここで私は素晴らしいことを思いついた。きっと断酒の効果がやっと脳に回ってきたのだ。
それは、煮詰める前の汁気の多い五目豆を取り分けて、ご飯と一緒に炊けばそれで五目御飯になってしまうはずである、というアイディアだ。すごいだろ。でも実は結構有名な事実かもしれない。お吸い物でキノコご飯炊くよりはいいんじゃないかと思うんだが。ご飯とおかずの素材が全く同じになってしまうというリスクは否定しない。
_ 自分が感じている違和感を、もっと信じてやっても良いんじゃないかな、なんて今日はそんなことも思いついた。普通「気のせい」の一言で片づけてしまうことだ。そういう風にしてその違和感を無視することが功を奏する場合もあるが、文字どおりに解釈すると「気のせい」とはつまり「気」が原因で生じる疾患とか症状とか障害という意味なのではないだろうか。「氣の所為」と書くと感じが伝わるかな。そうでもないか。元ネタになっているのは、対人関係療法の本に出ていた「病者の役割」という言葉なんだが。療法を受けている人に「あなたは病気にかかっているのです」と明言することによって、だから必ず回復するのだという希望を抱かせることができる、という逆説的にも見えるやり方があるらしい。最近、仕事はできないけど趣味をおこなうのに支障が無いという「新型うつ病」といううつ病のタイプが話題になっているようだ。TVでみたある治療者はこのタイプに対しては厳しく接することも大事だというようなことを言っていた。そこに何か違和感を感じたのがきっかけかもしれない。こころを定量化するという難しい手順の中で、しかし患者は何らかの苦痛を感じているからこそ受診しているのだ、という事実は忘れられるべきことではないだろう(私がそういう扱いを受けたことがある、という意味では無い)。
2012-10-18
_ 最近は自分の人生が半世紀越えたこともあり、だれだれがお亡くなりになったという記事が多くなっている。今朝のラジオでは若松孝二監督がなくなったというニュース。交通事故。少し前に寺島しのぶの特集をBSで見て、録画してある「キャタピラー」や「実録・連合赤軍あさま山荘への道」などを早く見て、さらには初期の成人向け映画なんかも見たいものだと思っていた矢先のこと。まだファンということではないが、いずれファンになりそうな監督という予感があった。ファン以前の段階でファン心理を語るのもおこめいているが、この人の関連作品をすべて読みたいという欲求の反面には、どこまでフォローすればいいのかという疲労感の様なものも付きまとう。作者の訃報にはそのような相反する2つの感情が交わる。
2013-10-18
_ 続き。帰宅して録画見始めた。ゆるキャラさん+ご当地の観光協会に対するユニット「勝手に観光協会」。折に触れ過去の「勝手に観光協会」映像が出てくる、セルフオマージュというか一粒で二度おいしい企画である。とりあえずみうらじゅん監修の蔵王権現フィギュアは欲しいかもしれない。
_ うにゃ [くまもん大人気だね]
2015-10-18
_ 朝、父の人から使っているタブレットがブラックアウトしたと電話。父の人の生活もかなりネットに依存しているので不便になってしまう。さしあたりはサポートを受けて、対応遅くなるようならおれの持っている同形の機種を差し出すことにした。メーカー保証期間ギリギリだ。
_ ポッカサッポロのまるごとレモンとかまるごとプルーンというのが大変良い。ハンディスマートボトルというのが最高に液切れが良いので容器欲しさに何度か購入した。これにハチミツ入れると快適。ペ●とかの業務用ローションなんかもこういう容器にしたらいいとぞ思ふ。
_ 久しぶりに「スミルノフ高等数学教程」を引っ張り出して、コーシーの収束判定条件のところを復習してみた。「010222」と「?」と鉛筆で書きつけてあったから、2001年に紐解いた時には理解できなかったようだ。その頃の自分より今の自分の脳力が向上したはずはないが、この短い節に書いていることが今日は何とか理解できたように思う。ざっと1時間半ほどかかった。もしかすると「理解した」と納得するためのハードルが14年前に比べてかなり下がっているということかもしれないが、当時理解できなかった挿図のグラフは今日はどういう意味か理解できたと思う。だがそのために1時間半かかるのである。2001年から数えると14年と半年かかると言っても良いかもしれない。まず何が書いてあったかを思い出すあたりから始まるから、もしもこういう学習を再開して習慣となるなら、1時間半を15分くらいまで縮められるかもしれない。それにしても、こういう理解を自分のものとすることには驚くほど時間が掛かる。15分あれば、筋トレのメニューが2つくらいは(マシンが空いていれば)こなせるだろう。そして、コーシーの収束判定条件を理解することよりも強い達成感を得ることができるはずだ。それすらしなくても、理解していなくても理解したことにするテクニックがあったり、代わりに理解してくれる誰かがいるのなら、それでもいいのかもしれない。そのことに違いを見出せないなら、それで十分だ。俺のしていることには全く意味がないことになる。本当に実力がついているのかどうかは、身ぐるみはがされて素っ裸になった時にしかわからない。むしろそういう時に実力を発揮することができないことも多いだろう。結局実力があることと無いことには大して違いは無いのだ。人間と、人間そっくりな哲学的ゾンビに結局実質的な違いが見いだせないように。つまり、実力をつけようという努力は、結局のところ自己満足であり趣味であり暇つぶしであり奇特な趣味と違いは無い。それを選ぶかどうかは真実美意識だけの問題ということになるだろう。
2016-10-18
_ 実は私は日曜の夜辺りから穢れているのである。かねてより仕掛けていた粘着式のネズミ取りに、まさにネズミがかかったのだ。以前から屋根裏をドタドタ走っていたので一匹ではなかったのかもしれないが、一匹かかったのだ。猫が何匹もいるのにネズミがいるのは、私の魔窟(=書斎)は猫立ち入り禁止だからなのだ。キルモアという名の殺鼠剤も併用していたので、もしかすると殺鼠剤で弱ったところを天井から落ちてきて引っかかったのかもしれなかった。しかしまだ生きていた。粘着剤が凶悪で、ずっとそのままにしておけばネズミは自ずから毛皮を剥いで逃げ出しそうな勢いだった。これまでにも被害が出ていたからかかったのは良かったと思ったが、しかしすっかり困ってしまった。この体長20cm(しっぽ除く。尻尾の長さだけでもやはり20cmほどあり、ネズミのしっぽは見るからに気色が悪いとつくづく感じた)のネズミをどう処理するかと言うことが大問題だった。良く聞くのはバケツに水を張って溺死させるか、粘着わなごとそれが生きているのを無視してゴミに出すか、といったあたりだった。もしも同様にネズミで困っていてわなを仕掛けようという人は、それがかかった後にどうするかもよく考えておいた方が良い。溺死させるのもそのままゴミの日に出してしまうのも私には選ぶことができなかった。大きな蓋付きのポリバケツの中にしばし罠ごとおいていたのだが、意を決して45Lポリ袋2枚重ねの中に罠ごと入れ、なるべく隙間ができないようにぐるぐる巻きにし(この段階でもかなり弱っていた)、窒息死することを期待しつつゴミの日を待ち、結局は息の根が止まっていることをろくに確かめることもせずにゴミとともに出したのだった。持った感じからはすでに活動を停止していたようではあったが…。次の機会までには、もっと簡単に死に至らしめる方法を考えておいた方が良いな、と思った。そして、このくらいの大きさの生物、しかも哺乳類ともなると、さすがに罪悪感をぬぐえないということを思い知ったのだった。よんどころない事情によってヒトを殺してしまった人の気持ちも、なんとなく想像できなくもない。動機がどういうものであろうと、一度手を掛けたならもう途中で止めても無駄なことで、あとは如何に手際良く片づけるかと言った現実的な問題を処理する他無い。そのためになら、はたから見れば残酷極まりない屍体の解体などもまさに『なされるべきこと』としてなされるのだろう。生命の保有者であったその生物のその大きさにおおむね応じて(あるいは人体の大きさとの類似度に応じてだろうか?)その命を奪うことには罪悪感が生じるのである。その中の小さなケースについては、あまり大人にならないうちに経験しておいても良いのではないか。つくづくとそう思う。
その後試しに以前食い荒らされたチーズを剥いて部屋に置いているのだが、食われた形跡はない。さしあたりこの家にはもうネズミはいないようだった。
_ [漫画] 「荷風になりたい 1」倉科遼原作、ケン月影画、小学館、2016.
新刊。ちょうど半分ほど読んだところだが、先日の「大江戸艶事大全」もあって、ちょっとしたケン月影リバイバルブームなのだ、私は。ケン月影さんオリジナルの作品は、絵の巧妙さに比べて安易なストーリーに物足りなさを感じ続けていたが、ノンフィクションであったり原作付きの作品だとずいぶんと印象が変わる。優雅で艶っぽい筆遣いではあってもほとんどテンプレートになってしまったかのような絵に、何かアフレコで全く元と異なるセリフ回しをあてられたかのような新鮮味を感じる。荷風と言う人にも大変興味が湧いた。『女帝』などで著名な原作者・倉科遼は元漫画家・司敬その人であり、私にはそちらの画風の方がなじみ深かったが、この作品を読んで原作者・倉科遼にも大いに興味を抱いたのだった。本書によれば荷風は明治の人だが、明治の世を”九州の足軽風情が経営した『明治』”と呼び、嫌っていたとある。こういう反骨は歓迎だ。もう一つ気づいたこと。ケン月影の描く女性、かなりの確率でわき毛を剃ってない。
2017-10-18
_ 図書館には文庫本は置かないで、なんて言ってる人がいる。買いたくなる本を出す努力をして欲しいもんだ。今や文庫本だってそうそう再版されるとは限らず、図書館で実物に触れてから高値のついた古書を崖から飛び降りるような心持ちで買うのだ、本当にその本を欲しいと思う者は。図書館と出版社はその関係を再考すべきだ。そして図書館は、全力で蔵書を守るべきなのだ。そして電車の中で泣きわめく赤子を、その親は全力であやすべきなのだ、他の乗客の舌打ちを責めるよりも。
2018-10-18
_ 「目的のためには手段を選ばない」という言葉が、しばしばヒロイックなニュアンスで用いられる。歳のせいもあってこのことには聞いていて口の中が酸っぱくなるような青臭さを感じ、そして不快になる。不当な手段で達せられた目的はもしかしたら誰かを幸福にするかもしれないが、もっと正当な仕方で達せられるのならそのほうが絶対に良い。不当な手段に訴えることしかできないなら、それは本来崇高になるはずだったその目的を貶めて汚すことだろうし、何よりそうすることしかできなかったその人の能力不足の証と言えるだろう。
2020-10-18
_ 晴れのにちよーび。市立図書館で本借りて学習センターで本借りてヨーガやって帰宅。何ヶ月かぶりにケーキ買って帰り、はるるんの旬菜ナビ見ながらくつろいで食べる。例によって上にラーメンが載ってるケーキね。今日は更に薔薇の花なんかも買って帰ったのだった。途中誰かに声かけられたら「ワイフにプレゼントです」くらい言う準備はいつでもできてるのだが、いつも特に誰にも声はかけられないのだった。
つづき。おお!はるるんピアノ上手い!びっくらこいた。
2021-10-18
_ 今宵は十三夜とのこと。十五夜は眺めた。片見月にならずに済んだ。人恋しと泣けば十三夜。月は朧淡い色くらい、とはいかず雲間からくっきり。雲は月を隠さぬように優しく流れている。神無月に囲まれて口笛を吹いてます。
2022-10-18
_ 気が向いたので夜になってジム行って軽い筋トレ。鶏むね食べて寝まする。
_ 鶏むね肉は300gあまり。塩コショウ乾燥パセリ振ってフォークでザクザク刺したらラップもせずにレンジで4分、ひっくり返してさらに3分。さらに冷凍西洋野菜とたっぷりのニンニク、これまたたっぷりのオリーブオイルでフライパンで焼く、というよりオリーブオイルで煮たような感じになった。お醤油をちょっと垂らして食べる。おお。オイルたっぷりだから全然パサパサしない。これは今後も使えるんじゃないかな。ご馳走様でした。食って供養。撮像しとけば良かったな。。。
2023-10-18
_ いろんな多重比較法があって整理しないと収拾つかない。それにしてもいろんなことを考えるもんだ。統計学は、その基礎において哲学と同様の困難を抱えつつも哲学を超えて実用的である。そこが困る、というときもあらあな。いろいろあらあなは東京ぼん太。ヨーガのアラーナは羽のポーズ。あれ、なんでこれ、アーサナっていう言葉が付いてないんだろ?
2024-10-18
_ というわけで岩波文庫『小僧の神様他十編』を読み進み、『城の崎にて』まで読んだ。温泉地に長い逗留をする筆者の心の中には、最近書いたという『范の犯罪』(これも同書に収録されていてすでに読んだ。サーカスのナイフ投げが的である奥さんを死なせてしまうのだがこれが故意か過失かという裁判の中で裁判官と被告・范の複雑な内面を著している)やら宿の部屋の縁から見える玄関の屋根の蜂や捕まえられたネズミだの湧水の中のイモリなどに自らの死のイメージを重ねる志賀先生。そもそもこの逗留というのが湯治目的なのであって、山手線にはねられた、と何気なく冒頭に書いてある。なるほど。…じゃねえよ、よく生きてたなあ。と僕も思うが当人もそう思っている。まあそんな風に全体に死のイメージのほのぼのと漂う作。この当時長編小説を推敲しており(『時任謙作』のようだ)、本書に収められたこの作はまさに森村誠一氏が書いていたように、作品世界の構築に疲れて合間に書かれたエッセイ、というようにも読めた。昨今のエッセイといえば、大体導入が奇抜であれ平凡であれ、どこかにおもしろエピソードが含まれていることを期待してしまうのだが、志賀先生のように心の動きを綿密に描きつつも特にオチもない(世間に毒されてるのだろう、そうとしか読めないのよ)文章を人に読ませるものとして発表するということが全くもって前時代的に感じられた。まあ前時代の作品なんだから別に褒めてもけなしてもいないのだけど。新聞のコラムに載っていても目を引くような内容とは思えないのだが、発表当時はどのように受け止められたのか。またこの作が生まれてのちの他人の作品にどう影響したのか。そういうことって、美術品や学説の変化のようなものの遍歴を辿るほどには知らしめられても調べられてもいないのかもしれない。多くの言葉で書かれた「文章」というものであっても、そこに描かれた内容の受け止められ方は時代を経るにつれあっという間に色褪せる。それを書いた側には、多くの場合、同時代の読者を読み手と想像して書いているだろう。だから書き手と読み手の間には極めて多くの「暗黙の了解」事がある。書かれた文章の意味は、それらの事前情報を既知として書かれているわけだから、論文などのように過去の説を簡単にレビューした後に自らの何が新規でどう読むべきかなどを明記することの殆ど無い小説やエッセイその他文芸の多くは後世の読者に真意を伝え得ない。書かれたる文章は、情報を伝えることを第一義とする文字記号で書かれてはいるのに、その情報量ほどには多くのことを語りはしない、ということなのだろう。これを極論するなら、文筆を作業することも筋トレと大差無い。努力の甲斐は当人の汗と涙の途絶えた時以降極めて速やかにその表わすものを失う。もちろんそのことによって文筆や筋トレを無価値とすることは、誰にもできないのだ。
_ うにゃ [エマニエル夫人もなくなっちゃいましたね。。]