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2006-10-04
_ 講義始まった。
今日が初講義の「中世日本の物語と絵画」。朝5:15。なるべくリアルタイムで視聴するようにしたいが、体持つかな?年食っても全然早起きにならないんだよなー。
今期はできる限り録画・録音しておいて、最低2回は視聴するようにしようと思っている。テキスト読み返すのは当然として。先期はテキスト以外からの出題が一杯あったという反省から。
_ 明治の地図
今日も会社帰りに図書館に寄って、地図を閲覧。朝倉書店から出ている「日本図誌大系」に全国の1/50000地図の幾つかが載っている。北海道の故郷のところの地図なんかも出てた。解説がまた結構参考になるので、近代の交通史の参考書としてなかなか有用と思う。静岡側の矢倉沢往還の道筋がかなり確定できる。手元に置いときたいなあ。。。高いけど。
2010-10-04
_ 雨の予報の割には大して降らなかったようだ。が、湿度の高さを感じる。書斎もちょっと蒸し暑い。蒸し暑いけど、ベンガルスパイス(という名前のスパイスの効いた危険な香りのするお茶)を低脂肪乳で出してチャイにして飲む。蒸し暑いのに体があったまる。でもそんなに悪い感じではない。
_ [食べ物・飲み物] シチュー製造の続き。
昨日のシチューはどう考えても量の割にデミグラスソースが足りないと感じていたので、さらにひと缶追加したら、案の定旨くなった。五目豆と同時に作成したので、シチューにはひじきが混ざり、五目豆には玉ねぎが混ざる。デミグラスソースをベースにしてもトマトをベースにしてもクリームソースをベースにしても具は全く同じ。カレー作っても一緒だな。材料を共通化することによって在庫管理がシンプルになる…のか?とりあえず買い物のとき迷わないのは良いんじゃないだろうか。
_ 図書館から借りてきた本の返却期限が来る。さっさと返して古本屋で買ってしまおうかなんてつい思ってしまう。
気になっているだけかもしれないが近頃地震が多い。地震の発生頻度が増えたんじゃなくて注意報を発報する頻度が上がっているんだろうか。この間は福島、今日は茨城と沖縄。テレビ画面の半分近く注意報の表示で隠すのは止めてほしいんだけど。もう少し慎ましくやってくれないものか。今見てるハイビジョン特集で白クマのピースくんの姿が日本列島の影に隠れて良く見えないではないですか。そんなNHKに受信料など払えません(←この言葉はかなり昔の参院選の政見放送〜もちろんNHKで放映された〜でオカマの健さんこと東郷健氏が発言した言葉を踏襲しているわけですけど多分伝わらないな。受信料は払ってますよ)。
_ 釣狐。
古いVTRを整理していると、20年近く前の野村万作さんの釣狐のドキュメンタリーが出てきた。理由は忘れたがふさぎこんで会社の寮の狭い一室で録画しながら見ていたのを覚えている。春分の日のことだった。狂言師が何度も演じることは珍しいこのダイナミックな演目を62才の野村万作さんは何度も演じていて、この年、演じるのを最後とした。番組には若い萬斎さんも出てきて、二人で”月に吠える”狐の仕草をああでもないこうでもないと議論している。この番組のことは一生忘れないだろう。そういえば、万作さんの自伝を読んだことを思い出した。確か「太郎冠者を生きる」というタイトルで、横浜市立図書館で借りたはずだ。中で覚えているのは、子供の頃熱にうなされて「きゃあきゃあきゃあ…」という狂言の猿の台詞をうわごとで言っていたというくだり。そこを読んだときに、後年父から聞いた私の子供の頃の話を思い出した。幼い私は熱にうなされて童謡「靴が鳴る」(靴が鳴るという現象がどういう状態を意味しているかは今もって理解していると言えないが)を歌っていたと言う:「おーてえて、ちいないで」。これを聞いた父は、もう私は駄目かもしれないと思った、と言っていた。幼い頃、父や母が寝付きの悪い私に物語や童謡を聞かせてくれていたことは割と良く覚えている。
2012-10-04
_ [アニメ] Where does this ocean go?
菅野よう子が素晴らしいことを今更言うまでの事はないが、攻殻機動隊の音楽の一つであるこの曲は取り分け良い。電車の中で歌詞を調べてたら思わす涙ぐんでしまって参った。私の暮らしは孤島のよう。この海はどこに行くのか…
_ 後記。この曲、どうもビヨークのHyperballadという曲をパクってるという疑惑があるらしい。youtubeで聞いてみると、あーなるほどなーという感じ。旋律に、それが表現しようとする「意図」というものがあるならば、その「意図」するところはかなり同じところを向いているというわけで。電車の中でひそかに流した私の涙はどこに行ってしまったのか…。ここにもフリーライダーの罪深い面が見て取れる。感動がモラルの醸成に関連深いことであるなら、ただ乗りによって作られた感動はやはりモラルハザードを引き起こす原因となるのである。とまあ理屈っぽいことでも言っとかないとなんか気分として収拾が付かない。まあそれでも菅野よう子が素晴らしいということには今のところ替わりはないのだが、本気で調べていくとオリジナリティという点で問題を多々発見することにはなるのかもしれない。実際そういう例を集めているページもあるようだ。しかし一方で、受け手は別にオリジナリティを求めてはいない、そんなものはもう探しても見つからないという向きもあるだろう。あさりよしとおがたしかデビューして数年後にそんなことを書いてたのを覚えている。その後さらに時を経たあさりよしとおの風貌は「えの素」の郷介そっくりになってしまったらしい。あさりよしとおとフリーライダーは関係ないと思う、念のため。
2014-10-04
_ だいぶ寝ていた。夕刻、腰の治療へ。もうだいぶ具合は良いが念のため。看護師の女性に、腰と腹の周りがかぶれているのを見て、湿布のせいかと尋ねられる。実はコルセットを付けると腹部が締められるので上半身が逆三角形に見えるのが嬉しくて、必要以上に強く絞めていて汗でかぶれたようなのだ。それを看護師に話すと、そういうのは止めろと言われたのだった。もう痛みは引いてきたのでコルセットは止めても良いと思う。
_ 山賊の娘ローニャのメイキングを見てて、これからアニメについて語ろうとする者はこういうものも見とかなきゃいけないのかな、嫌だな、うんざりだな、と思った。3Dの技術を駆使して所詮は2Dの世界に何を付与しようとするのか。リアルな子供のモデリングからはじめてそれが2Dの手描きになるような処理を施す。いわばリバースエンジニアリングのようなことをやっている。思うに、3D体験を俺たちが本当に楽しもうとするためには、やはり裸眼で全方向に対応できる3Dディスプレイが必要なのだ。モデルを元にしてたくさんの表情や動きのパタンを作成する。これらの組み合わせとして人物キャラクタが演技するのだが、一度このようなデータバンクができてしまったら、そのあとキャラクタを演技させるのにはもはやいわゆる「アニメーター」はいらなくなってしまうのではないだろうか、と思う。シミュレーションでアニメーションを作っていることと、意味においては変わらない。いずれそうなるのだろう。そうなれば、特殊なスタッフが高価な機器を使ってアニメ作品を作る時代はそう長く続かないようにも思う。一旦有用で実現可能となれば、そのあとは効率もコストもどんどん改善していくはずだからだ。ボーカロイドのやってることが映像の世界に拡張されていくという見方もできる。だが、そのように使える技術がオープンになっても、それを用いて優れた作品を作ることのできる人間はそうそういない。そういう人間の価値は高くなる。一方でクズな作品もどんどん溢れ出す。大量の石の中から玉を見分けてとりだすこともまた困難になっていく。これからこういう世界で生きていく人間は、絵なんか描けなくても良いけどクリエイティブにならなくてはならず、表現できる技術を持っていることよりも、表現したいこと自体を持つことのほうがずっと重要になっていく。すべての創作活動がそうなっていくときに、その「真に表現したかったこと」同志をたくさん並べたら、そのうちのどのくらいが独創的であるのか。クリエーターの在り方を問われる息苦しい時代が来そうに見える。
いや、もっと書いておくべきことがあった。これだけグラフィックの技術が進歩したにもかかわらず、相変わらず「不気味の谷」が越えられていない。あるいはそこに限界があるのかもしれない。多くの人の好みにマッチするようなキャラクターは、少なくとも「美女100人の平均顔」のようなものではないだろう。そう思ってたら、実はそうでもないという気もしてきた。
_ NHK Sp.で御岳山の噴火の特集をやっている。山頂付近は、以前博物館で見たポンペイ展を想起させる悲惨さだ。これが現実なのだ。今日までの集計で、何と50人が亡くなった。一面火山灰に覆われて泥のようになり救出活動の困難さは想像に余りある。日本という国土は危険なのだ。それは昔からそうだったのだと思う。こういう危険な地域に住むための古来の知恵はどれほどが伝わっていて、どれほどが失われてしまったのか、とも思う。まあ現実の厳しい惨状の前にあっては語る言葉も空しいものに過ぎない。
2015-10-04
_ メスティンで炊飯。
_ やはり慣れてるから一発で成功する。加熱には例のミニクッカーAC100Vを使った。メスティンはおおむね密封状態になるので吹きこぼれが心配だったが、1合炊きならほとんど問題にはならない。水に一晩つけたものを30分加熱して5分くらい蒸らして完成。、外出先用に無洗米の玄米を入手すればOKだ。ちなみに今まではお米の保管はプラの米びつを使ってたが、蛾が卵を産み付けるので閉口してた。今は、日常的に飲んでる野菜ジュースのペットボトルが空になると洗って乾かして、使い捨てカイロの小さいのを放り込んでからじょうごを使って詰め込んでキャップ閉じる。カイロを入れるのは、これから寒くなってお米サンがかわいそうだからだ。ほんとは脱酸素剤としてつかってるの。入れるのはちょっと手間だけど取り出すのは問題無し。
2016-10-04
_ 筋肉痛まだ続いてる。大胸筋が痛い。以前のウェイトではキツかったので10kgくらい軽くしたのだが。
_ コーヒー飲みつつなんとなく流れ星の動画見てたら普通に吹き出しそうになった。ちゅうえいが好き過ぎてもうちゅうえいになりたい。
2017-10-04
_ 名月が
_ 名月が 雲に隠れて まあいいか
というわけで夜のトレーニング。あ、エッチな意味じゃないですよ。なんか今日は一人ヨガも筋トレも充実感があった。ほんの少しだけどハヌマーンのアーサナに近いこともできた。一つ一つのマシンでどの筋肉に負荷が掛かっているかを実感することができた。これら一つ一つの些細な達成感によってヨーガが成り立っているということではないだろうか。なりたい自分にわずかずつであれ近づくことが、思考と動きと身体を「結ぶ」ということなのではないのだろうか。生活すべてがこんな感じならアタラクシアは実在するということも嘘とは言えないのではないか。少なくとも今宵はそう思える。明日はまた違うかもしれないが、一つ確かなことは、この実感は決してチートによって得られるものではないだろう、ということだ。
_ そんなこと考えてるうちに望月が現れた。
2018-10-04
_ 会社のそばに大きな川がある。通勤の道はおそらく以前の川の跡なのだろうと思う。街道ウォーキングを長く続けているせいだろう。道の出来方に想いを巡らす事は良くある。この道は断層の上に発達したのだ、とか、縄文の海進の頃は岬を一周する海岸線だったであろう、とか。そう言うことを考えながら歩く人は超歩行者キュウカイダーと呼ぶに相応しい。中沢新一さんは「アース・ダイバー」と呼んでいたな。道は要所を繋ぐに便利な道具であり、連綿たる歴史における記憶装置でもあるのだが、そこには今や顕在的とは限らない危険があるのだ。少なくも地質学的に、そして追い剥ぎのようなものの被害にも遭いがちであるという意味で人的にも。転ぶリスクもある。ご安全に。ちょっと何書いてるかわかんなくなった。
2020-10-04
_ にちよーび。北島サブちゃんのたんじょーびだそうで。朝から雨。湿度のせいか羊肉大量に食べたせいか、体の奥から熱が出てくるような感じ。なのに体温は36℃切ってる。最近特に朝は体温低くなってる。なんか早起きしてしまった。この間スマホのガラスシール割れて軽く切った指先は数日チクチクしてた。どうやらガラス繊維が指の中に残っていたようだったが、木のトゲなんかとは訳が違って、ピンセットで取り出すことはできないようだった。こういうガラス繊維を高速で打ち出す銃とかあったら恐ろしい。結局そのまま傷部分の組織が固まって完治。もうなんともないぜ。
2022-10-04
_ やっと太ももの筋肉痛が引いてきた。でもきっとまだジムのレッグプレス直ってないだろうなあ。125キロ10回1セットを5セットやるのがルーチンなのだけど、こないだのスクワット100回の方がずっと効くというのが解せぬ。運動量的にはあまり違いがないような気もするのだけど、マシンの方が効率が良くて楽なのかも。いや待て。体重×2>125キロだし移動距離もスクワットの方が少し長い(深い姿勢でやった)から仕事量はやはりスクワットの方が多かったのか。でもなんかそういうことじゃ無いかもしれない。自重トレーニングって結構効果的なんだと聞いたことがある。
_ ネットで調べてみた。足を広げる広さと深さに応じて色々な種類がある。たしか週末にやったのは足の広さは肩幅くらいだったが、深さがどのくらいかよく覚えてない。次回は確認しながらやってみよう。一度に100回もちょっと多かったかもしれない。膝は爪先より前に出さないこととかいろいろコツがあるようだ。これは正式に習ったほうがいいな。マシンが壊れてるからスクワットに替えた訳だからジムのスタッフに教えてもらうか。いい考えだな!
2023-10-04
_ 雨の中を朝はジョギング、夜は自主ヨーガと筋トレという自己肯定感上げまくる日でした。仕事ではなかなか得られないからね、自己肯定感。と思ってたらなかなかマニアックな統計理論の話を質問してくる御仁がいたりして、我が社にも人がいるなあ、などと思ったことでした。たまたま結構勉強していた分野だったので一応の回答ができて良かった。こういった「ある種の変態」がいなくなった会社は末期だと思うのよ。だからもう少し大事にして欲しいのよ。骨まで愛して欲しいのよ。
2024-10-04
_ 「死ぬ準備」と称してあまりためにならず捗りもしない書付けばかりが増えていく。先日上野先生の"在宅ひとり死"の本を読んだのち、認知症関連の本を3冊くらい読んでいるのだが、症例の中には自分の実体験に似ているものがいくつもある。このことからは、自分も認知症なのだと思うこともできるし、認知症とそうでないものの間には連続性があるのだと考えることもできる。立って2歩歩くと何のために立ち上がったのか忘れているとか、ふと何処かに置いたものが次の瞬間にはそこに見つけられなくなるとか、必要と思ったものを買ったら家にはすでにあった、なんてことは日常茶飯事なのである。今どこかで診察を受けたら自分も認知症とされるのかもしれない。でも問題はそんな病名をもらうかどうかではなく、今の自分には何ができて何ができないかを把握することなのだろう。折しももう2学期が始まったので、また大学の通信課題を提出して面接授業も受けて試験に備えるしかないのである。覚えの悪くなる一方の頭で何とかやっていくしかない。あるもので何とかするしかないのだ。