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2014-10-04 [長年日記]
_ だいぶ寝ていた。夕刻、腰の治療へ。もうだいぶ具合は良いが念のため。看護師の女性に、腰と腹の周りがかぶれているのを見て、湿布のせいかと尋ねられる。実はコルセットを付けると腹部が締められるので上半身が逆三角形に見えるのが嬉しくて、必要以上に強く絞めていて汗でかぶれたようなのだ。それを看護師に話すと、そういうのは止めろと言われたのだった。もう痛みは引いてきたのでコルセットは止めても良いと思う。
_ 山賊の娘ローニャのメイキングを見てて、これからアニメについて語ろうとする者はこういうものも見とかなきゃいけないのかな、嫌だな、うんざりだな、と思った。3Dの技術を駆使して所詮は2Dの世界に何を付与しようとするのか。リアルな子供のモデリングからはじめてそれが2Dの手描きになるような処理を施す。いわばリバースエンジニアリングのようなことをやっている。思うに、3D体験を俺たちが本当に楽しもうとするためには、やはり裸眼で全方向に対応できる3Dディスプレイが必要なのだ。モデルを元にしてたくさんの表情や動きのパタンを作成する。これらの組み合わせとして人物キャラクタが演技するのだが、一度このようなデータバンクができてしまったら、そのあとキャラクタを演技させるのにはもはやいわゆる「アニメーター」はいらなくなってしまうのではないだろうか、と思う。シミュレーションでアニメーションを作っていることと、意味においては変わらない。いずれそうなるのだろう。そうなれば、特殊なスタッフが高価な機器を使ってアニメ作品を作る時代はそう長く続かないようにも思う。一旦有用で実現可能となれば、そのあとは効率もコストもどんどん改善していくはずだからだ。ボーカロイドのやってることが映像の世界に拡張されていくという見方もできる。だが、そのように使える技術がオープンになっても、それを用いて優れた作品を作ることのできる人間はそうそういない。そういう人間の価値は高くなる。一方でクズな作品もどんどん溢れ出す。大量の石の中から玉を見分けてとりだすこともまた困難になっていく。これからこういう世界で生きていく人間は、絵なんか描けなくても良いけどクリエイティブにならなくてはならず、表現できる技術を持っていることよりも、表現したいこと自体を持つことのほうがずっと重要になっていく。すべての創作活動がそうなっていくときに、その「真に表現したかったこと」同志をたくさん並べたら、そのうちのどのくらいが独創的であるのか。クリエーターの在り方を問われる息苦しい時代が来そうに見える。
いや、もっと書いておくべきことがあった。これだけグラフィックの技術が進歩したにもかかわらず、相変わらず「不気味の谷」が越えられていない。あるいはそこに限界があるのかもしれない。多くの人の好みにマッチするようなキャラクターは、少なくとも「美女100人の平均顔」のようなものではないだろう。そう思ってたら、実はそうでもないという気もしてきた。
_ NHK Sp.で御岳山の噴火の特集をやっている。山頂付近は、以前博物館で見たポンペイ展を想起させる悲惨さだ。これが現実なのだ。今日までの集計で、何と50人が亡くなった。一面火山灰に覆われて泥のようになり救出活動の困難さは想像に余りある。日本という国土は危険なのだ。それは昔からそうだったのだと思う。こういう危険な地域に住むための古来の知恵はどれほどが伝わっていて、どれほどが失われてしまったのか、とも思う。まあ現実の厳しい惨状の前にあっては語る言葉も空しいものに過ぎない。