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2005-10-19 「街道」の初出をたずねて二人の鈍太郎に出会う。
_ 「街道」の初出をたずねて図書館に。
北魏書賈思伯伝の載った本が見つからなかったが、謡曲「遊行柳」と「続日本紀」、それから大蔵虎明狂言伝書より「鈍太郎」(どんだろう、と読む)などを参照してきた。最後の狂言には、「…そなたとわらはと中なをりをして、海道へ出でて、逢うたらば止みょうと存ずるが…」とある。この「海道」は広い道と言う意味で「街道」と同義、とのこと。この用法としての最も古い出典がこれ、ということだ。
長くなるが、その「鈍太郎」のあら筋はこんな感じ。
長く九州にいた鈍太郎が京に戻ってきた。京には上京に妾、下京に本妻を残していたが、どちらにもずっと便りをよこしていない(ちなみに上京は御所を中心とする上品な地区、下京は繁華な商人街、とのこと)。どちらをたずねても、戸を開けずにもうすでにそれぞれ棒使い・長刀使いの夫を持ったので入ってきたら脛を攻撃するぞ、などと言って逢ってくれない。実はそれは妻たちが度々若い男にちょっかいを掛けられるので、それを追い払うための方便だったのだが、鈍太郎は真に受けて、さんざん怒った上に世をはかなんで坊主になる。その噂を聞いた上京・下京の女たちが仲直りして自分たちのもとに戻そうとする。泣いてすがる妻たちに鈍太郎はどんどん良い気になる。「じゃあ俺の言うとおりにしろ」とて、妻二人の腕を組ませて手車を作らせ、その上に載って「これは誰が手車、鈍太郎殿の手車」などと囃したてながら意気揚々と去っていくのだった。全くいい気なもんだな、鈍太郎。
「鈍太郎」という名前は他の狂言にも現れるようだが、OPAC(図書館の蔵書検索システム)でこの語を調べると、「こがね丸」に代表される少年向けの作品を多く手がけた巌谷小波の作品に同名のものがあり、これが検索された。モノのついでに読んでみるとこれがまた狂言の鈍太郎とは全く関連の無い内容だった。さらに長くなるが、その概略は以下。
鈍太郎はせっかくの元旦の日に、父親から留守番を言いつけられる。特に、家の大事な財産である子豚を盗まれないように気をつけろと言われるが、ものぐさな鈍太郎はじっと監視しているのも退屈だと、子豚に寄り添って一緒に寝てしまう。ふと眼を覚ますとその子豚がいない。外に出て探すと一人の老人が豚を連れて歩いているので、さては、と文句をつけるといきなり叩かれて"ものぐさ"をなじられてしまう。しかもその拍子に鈍太郎は一匹の豚に変えられてしまう。
しかし豚が見つからないどころか自分が豚にされてしまっても、鈍太郎は大して落ち込まない。いなくなった豚の代わりに自分が豚小屋で寝ていれば父親が帰ってきても気づかないから怒られずに済むだろう。そういうヤツなのだ、この鈍太郎は。
しかしその父は帰宅するなり自分の豚(実は鈍太郎)を売り払ってしまう。鈍太郎は屠殺場に連れられていって…ギャアアアアア
いえいえ、元旦早々からそんな残酷なお話にはなりません。鈍太郎はそこで夢から醒めたのでした、という一席。
どちらの話も他愛ないと言えば他愛ないが、どちらの鈍太郎もナイスな奴らだ。だいたい名前からして、ありえない。
2006-10-19
_ [漫画・アニメ] 009-1
ゆうべ空間点分布のことを調べるのに時間がかかって今日は寝不足だった。が、面白い分野で興味が尽きない。歴史は古いがGISの利用技術などとからんだ展開が最近の動向のひとつというところだろうか。
少し眠って、夜中にアニメを見ている。最近どんなアニメでも流れてさえいれば安心するような。わたしもまた「アトムの子供」ということで。
「009-1」というのがこの秋始まった。石森章太郎「009ノ1」をベースにしているということだが、読んだことが無いので翻案なのか原案なのかわからない。キャラクターが全くあきれるほど石森キャラで、オープニングを見て石森キャラはシルエットで表現しても石森キャラなんだなあなんて感心する。主人公の声を釈由美子が当てているのに違和感を感じていたのだが、今日見ていて、これが雪野五月みたいなプロの声優が当ててたら恥ずかしくてとても見られないものになってただろうな、なんて考えた。一話完結のストーリーは懐かしくもコテコテに戯画化されたスパイアクションで正直照れくさくて真面目に向き合えるようなものではないし、主人公のプロポーションも女性の性的な魅力を歪曲的に誇張したようなもので、これが好きだなんてちょっと昼日中に人には言えないような猥雑さだ。つまり、どこもかしこも、どうにも「マンガ」なんだよな。余りにマンガ臭い。こんなにマンガらしいマンガ、しばらく見なかった。まあマンガをそういうものにしたのが石森章太郎だったわけなんだから当たり前なんだが。だから、釈由美子のマンガ臭の抜けきったような(というか、共感を呼び起こすことができないというか、演技-してるのかもしれないができてないというか、要するに棒読みというか、声優版原節子というか…ああ、またしてもぴったりしたたとえを探しているうちに全然わからない例えになってしまっている!)そういう声をあてていることが作品に絶妙な均衡を与えているように思えるのだった。これが演出意図なんだとしたらスゴイ(皮肉でそう言ってる訳じゃない)。
見てるうちにこの作品は「攻殻機動隊SAC」みたいな作品の正反対の位置にいるんだな、と感じた。原作の設定を単にリソースとして利用してそこから全然違う世界を展開してしかもこっちの方がすごいだろ、みたいな現代的なアニメ作風に対するアンチテーゼなのだな、と。そういうわけで、声が棒だろうが展開がステロタイプだろうが、009-1は現時点では好ましい作品だ。
_ で、エンディングの回し蹴りの狂ったデッサンすら石森テイスト。こういうのを現代風に描きなおさないのがまた好ましいというか潔い。いわば鎌倉武士のような…いや、またヘンに例えるとかえってわかりにくくなる。
2011-10-19 元ネタ。(なのかどうか…)
_ 初カキコ・・・ども・・・
俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
今日のクラスの会話
あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか
ま、それが普通ですわな
かたや俺は電子の砂漠で死体を見て、呟くんすわ
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
好きな音楽 eminem
尊敬する人間 アドルフ・ヒトラー(虐殺行為はNO)
なんつってる間に3時っすよ(笑) あ〜あ、義務教育の辛いとこね、これ
2014-10-19
_ [放送大学] 「『自省録』を読む」2日目。
昨日に続き全12巻分を概観してディスカッション。マルクス・アウレリウスは何を問題としたかその問題にどのような処方を用意したか、その処方はいかなる根拠に基づいていてそこから何か規範や法則のようなものが導けるか。このことは各自のレポートにもゆだねられたが、俺はこの授業を通じて一つ気づいたことがある。
マルクス・アウレリウスの意識していた神とは一体どんな存在だったのか。自省録を読んでいくと、神に関連する記述が多く出てくる。それはしかし、全てを善きこととして設計する知力溢れる神であったり、逆に、人の基準になる善と悪には頓着しない言わばグノーシスの無知なる創造神であったり、あるいは慈愛に溢れるものであったり、逆に人知で推し測ることのできない暗い顔をした残酷な神であったり。時代からいえば彼の崇拝した神はヤハウェの神ではありえない。しかし、ではそれがギリシャ・ローマの多神教の、とりわけゼウスであるのかと言えば、俺が読み親しんだギリシャ神話に出てくる、あの夫人・ヘラを欺いてしょっちゅう浮気をしていたあまりにも人間的なゼウス像とは明らかに異なっているのである。
そう言えば、日本の神話にあらわれる神々も、不可知な行動を取ることは多いが、それに負けず劣らず人間的でユーモラスな存在のように描かれていることが多いと感じる。そんな人間的な神が、神社に祀られているさまを見るならば、何物のおわすかは知れない畏怖や崇敬の念を抱かずにおられないのである。この、神のキャラクターのブレは一体何なのだろう?ここから想起される一つの想像は、もともとギリシャの神にせよ日本の神にせよ、人間的な面に加えて、人の理解を遥かに越えた恐ろしい存在であったのだ。しかし、その神々の物語はその”なにごとか”を雄弁に伝えることはできず、ただ、その民俗誌的な部分だけが伝わったのではないのか、ということだ。たとえば「因幡の白兎」の話は、ワニザメを欺くトリックスター的な兎のキャラクターを生き生きと伝えてはいるけれど、「古事記」を良く読めば、その兎はその頃信仰されていた未来を預言する一柱の神格であったことがわかる。そのような、人知を超えた側面よりも、彼のトリックスターとしての側面の方がもっぱら後世に伝わったのではないのか。我々が神話を読む場合には、そこに隠されている畏怖の対象としての神々の暗いプロフィールを丁寧に読み解く必要があるのだろう、と思うのである。
_ それにつけても。今回の面接授業においてもまた、授業の論点を無視して我が事を語る「困った輩」がいたのにはすっかり参った。ただでさえ、『自省録』や哲学にシンパシーを強く感じていると思われる輩の、ともすれば議論を占有しようとしかねない”かぐわしい”言動が俺の自律神経をチリチリと焦がしていたところにそのような発言が長く続いたのにはとうとう堪らなくなってしまった。マルクス・アウレリウス自身は、そのような輩が自分に対してなんら影響を及ぼしはしないではないか、だから公共に尽くすという目的でないのならば、人が何をしているか何を考えているかと言うことに思い悩むな、といった趣旨の処方箋を与えている。だが俺はまだそれを自家薬籠中のモノとすることはできなかったし、何よりも授業の残り時間が15分を切っていた。ついに手を挙げて、その内容は、今論点としているマルクス・アウレリウスの挙げた処方には無いことであるから議論が発散している、と発言せざるを得なかったのだ。ストア派のマルクス・アウレリウスも、俺の私淑するエピクロスも俺にアタラクシアを求めよと勧めてくれた。しかし、この授業の最後はおよそアタラクシアには程遠いものだったのだ。自律神経の焦げる匂いは、その後入浴して食事を摂るまで続いたことだった。しかし、それ以外は大変有意義で楽しい授業だったのである。
_ ハローワールド、フロムS50。ウィンドウズタブレットから繋いでます。これ、今度帰省したら母の人に渡す予定。結構好い感じだが、アプリとかダウンロードするのはまだ良くわからず。とりあえずオフィスがすぐ使えるのは悪くないが、やはりキーボード欲しいよね。俺のホームページ、早速お気に入りに登録したから、毎日読みなw あと、らじるらじる も登録したから。
2015-10-19
_ キッチンのテーブルに食事に使わないものが山ほど積み重なっていていろんなものが落ちる。さすがにこれは駄目だと思ってちょっと片づけに入る。ろくに仕事もしてないのに一日が短く感じてしまうのは何なんだろうか。我が家のエントロピーは増大するばかり。やがて熱死を迎えるのだろうが、ささやかに戦ってみる。マツムシ鳴かない。もう鳴かないんだろうか。天道(カブトムシ)は相変わらず昆虫ゼリーに突っ伏してムシャムシャ音を立てて食っている。突っ伏してる姿を見ると「伝染るんです」の斉藤さんにしか見えない。
早く寝て早く起きなくちゃと思うが、今週末の英会話の宿題に3分間プレゼンと言うのがあるので何話そうかと思案中。どうせならばiPad使ってビジュアルなプレゼンにしたい。英会話でありながら、日本文化にも少し触れたいと思う。きっと秘蔵の「日本語大辞典」が役に立つだろう。そして、大して役に立たないお遊びだからこそきっかり3分で起承転結を守りたい。何でもいい。こだわりたい。何もかもうまくいかないときは特に。もちろんしないで済ますための口実もいくらでもあることは否定しない。炊いた飯冷蔵するの忘れてた。
2016-10-19
_ [テレビ] 「逃げるは恥だが役に立つ」
ついさっき見たばかりなのにどこのことわざか忘れたよ(←タイトルのこと)。今日もまたガッキーはかわゆらしかった。ガッキーが好きすぎて人類全てがガッキーになって欲しい。どういう世界だ。恋ダンス覚えるかな。
_ 有村架純が「どうぶつ恋図鑑」という動画で動物女子を演じている。猫、犬、牛、カルガモ、リス、イルカ、白鳥、そしてワニ。で、自分的にどれが一番良かったかと言うと、最後のワニ。真性マゾだからな。パクッと食べられて「ごちそうさまでした」って言われたい。そのとき俺はすでに架純の胃の中だけど。さっきガッキーが好きすぎると書いたばかりなのにこの目移りは我ながら恥知らずのパープル・ヘイズだと思う。星野源の恋、ダウンロードした。キー高いけど久しぶりに新曲をレパートリーに入れるかな。
2018-10-19
_ [音楽] "Urram", Karen Matheson.
スコットランドのトラッドのグループ、カパーケリーのボーカル。この人の声は世界の人にとって宝とすべきものと思う。2010年に大英帝国勲章を授与されているようだが、階級がよくわからない。このアルバムは全てゲール語で歌われている。だから全く意味の見当がつかない。まるで呪文のよう。ゲール語を教える教室って聞いたことが無い。フランス語なんかよりもずっと美しい響きだと感じる。
_ [ドラマ] 獣になれない私たち
第2回。やっと録画見始めましたよー!晶ちゃん、ビビりつつも要求をのませようと頑張ってへとへとになって5tap(キッチュの店)にたどり着いた。「tapワンで」これどういう意味?ところ変わって晶の恋人(田中圭)の家で出てくる黒木華。なんかつやつやしてんなあ。それはそれとして、有給なのに仕事に出てきちゃう晶ちゃん。出社拒否したビルドのところにプリン持っていくなんて、どんだけいい人さ。いやいやいや、こんな人いちゃいけないよ。…ややあって、恋人に同居人がいることを思い知らされてしまう晶ちゃん。おや?これはもしやガッキーと龍平さん白楽近辺歩いてたんだな。こんなとこにこんな教会あったんだ。地図調べた。うーむ、白楽といえば白楽。でも東横線なら反町の方が近いようだし、これはブルーライン三ッ沢下町というべきだな。なんか地図調べてるうちに終わった。晶ちゃんなんだかんだで昇進。つづく。龍平さんの今やってるような役、優作さんにはできたろうか。想像するとちょっと面白くはある。
2019-10-19
_ [読書] 「ある夢想家の手帖から 下」、沼正三、太田出版、1998。
まだ途中なのだが、この人は凄いなと思う。下巻では幾つものSF作品が示される。その中には有名なディックの「高い城の男」や「宇宙戦争」(この作に氏が惹かれたのは、火星人が人類を食糧として飼育する未来への夢想である)、「山椒魚戦争」、さらにはヴェルコールの「人獣裁判(!)などもあれば、和訳がどうやら出ていないジェームズ・ブリッシュ(宇宙都市シリーズやスター・トレックのノベライゼーションて良く知られる)の「巨人族の娘」などが引かれており、私の読むべきインデックスもそれゆえに増えた。この人は独語も仏語もおそらくはラテン語も自由に読みこなすことのできる人らしく、それがもしひたすら自身のマゾヒズムを満足させるがために身につけた教養なのだとしたら、勉強のあり方としては全く正しいことと思う。奇譚クラブに記事の書かれた当時の検閲を意識して敢えて和訳していない部分もある。氏の白人崇拝の源となった個人的体験(ドミナとしての英国夫人との運命的な出会い)も興味深く読むことができた。私なんぞは修行が足りないというか、真性マゾだなんてとてもとても自称できたものではございません。
2020-10-19
_ 雨のげつよーびの夜。ヨーガであちこちの筋肉をほぐす。終わると普通気持ち良いはずなのになんか胃がムカムカする。コーヒーの飲み過ぎかな。風邪気味だったりして。熱出てないけど。精の付くものでも食うか。そう思ったときに、父の人の若い頃の話を思い出した。女子を含む同僚で焼肉でも食べに行く,と言った時の話。レバ刺しも食おうとかおしゃべりが盛り上がり、男の同僚が「○○さん(←父の人のこと)、レバ刺し食ったら精○出るぞーw」なんて言い出して、(何だこいつは大胆なことを、女の子もいるのに)と思ったら「間違えた!精力つくぞ、だ」と訂正。
気をつけろよ、皆んなも。一度言った言葉はちょっと無かったことにするのは難しい。
2022-10-19
_ 夜ヨーガ。なんか調子いいのは最近節制してるからだろう。体重には直ぐには変化が無いが、1キロ2キロの増減で一喜一憂するのはとっくに止めてるからもう気にしない。そんなことより帰りがけの買物。俺の大好きなたらこにも果糖ブドウ糖液糖を使ってるものがあることがわかってショック。もうこの先遺伝子組み換え食品だろうがそうで無かろうが食べていくしか無い世の中になっていくことが見えてきた。何が起こるかわからないところが懸念なのだが、とりあえず遺伝子組み換え食品としてよりも、糖分取りすぎになりがちというシンプルな健康被害の方が先に問題となりそうだ。
_ というわけで昨日は遅い時間からガッツリ肉を食べちゃったので、今日は絹ごし豆腐一丁にとびっこ(←アダルトトイの方じゃないよ)、たらこ(←声優の方じゃないよ)、とんぶり(←トンベリじゃないよ)、じゃこ(←パストリアスの方じゃないよ)と刻み海苔(←流石に何も思いつかないよ!)を載せたらえごま油たっぷり掛けてお醤油少々刺してシンプルに食べる。なんかすっげえ美味かった。今日の夕食これだけ。食後にピープロテイン+豆乳。もう直ぐ寝るしこれでいいのだ。お豆腐丸一丁食べたらもはや空腹ではない。
2024-10-19
_ 遅く起きた土曜。『ワルイコあつまれ』の慎吾ママの部屋に出てきた茶々(北川景子)の録画を視てるところなのだが、この人本物の茶々だなあなんて納得してる。火縄銃持って「ダーン!」ww 役の抜けないうちにこんな風に再利用して番組を作るというのはメソッドとしては良さそうにも思われる。
それはともかく。今まで何となく理解してた工程能力指数のことがちょっと気になってきたので、さまざまな本にどう書かれているかを調べ始めたのだった。ちなみにこの尺度は日本産であるらしい。比較的近年の和書『工程能力指数』(永田・棟近著、日本規格協会、2011)の冒頭に、Kotz & Loveraceの教科書(Arnord, 1998)にそんなことが書いてると紹介してある。これは初耳!こんな指標はいかにも合理性を追求し続けるアメリカ原産と思い込んでいたのだが。誕生は70年代のようであり、このころの日本産業界ではQCサークルと言う草の根運動が盛んであり、統計的品質管理を日本にもたらしたのは1950年のデミング先生の講演とされる。この講演は本にもなっているとのことなのだが、今日本のAmazonで「デミング」を調べると自動的に「ハミング」と変換されて洗剤ばかりが出てきてしまうのである。それはともかく。改めてデミング先生について調べなおすと、以下のことが分かった:
(1)実は日本では神様扱いされていたデミング先生は1980年代に至るまで本国アメリカでは無名であった。それが注目されるきっかけは1980年にNBCドキュメンタリー「日本にできて我々になぜできないのか?」で取り上げられたからだと言われている。僕がこの件に興味を持ったのはかれこれ10年近く前になるのだが、当時この映像を見るのは難しかったと思う。現在、Deming InstituteによってYoutubeにアップされている。76分ぐらいあるようだが時間を見つけてみることにしたい。
(2)1982年に出版されたデミング先生の本は1986年に"Out of Crysis"と改題されて出版されている。邦訳は無いと思ってこれも10年ほど前に洋書を求めていて例に漏れず"本棚の肥やし"(そんなものがあるのだろうか??)になっていたが、2022年に邦訳が出版されたようだ。そのイベントが起こった時点よりも時が過ぎて未来になればなるほど、そのイベントに関連する情報にアクセスすることは容易になる。このパラドクスはしかしながらその情報を残そうとする人々のエネルギーなしには起こりえないことなのである。
そういった有用なことばかりを見出したわけではない。きっかけとなった永田・棟近共著の本は"JSQR(日本品質管理学会)選書"と名づけられた日本規格協会の出版のシリーズである。そのキャッチフレーズが「成熟経済社会のいまこそ魅せる日本のゆるぎない質力、質魂!」である。「質力」と「質魂」には傍点が付されている。どちらもどう読むのが正解なのか良くわからない。そんな言葉はたぶん無いのだが、こんな言葉を作ってまで、かつての品質を丁寧に育てた頃の遺産を後世に伝えようとする努力には意義があると思う。しかし安易に「魂」とかいうどうとでもとらえられるような言葉を使うセンスはちょっとどうなのかな、と思えなくもない。こ・じ・ん・の・か・ん・そ・う・で・す。
_ うにゃにゃ [うまそーー!]
_ けい [なんかこの画像良く見るとお盆が濡れててちょっと見苦しいですな。独り者の食卓なんてこんなもんです。ご飯と一緒に何食べて..]