RSSフィード:http://alpha-ralpha.com/diary/index.rdf
2014-10-19 [長年日記]
_ [放送大学] 「『自省録』を読む」2日目。
昨日に続き全12巻分を概観してディスカッション。マルクス・アウレリウスは何を問題としたかその問題にどのような処方を用意したか、その処方はいかなる根拠に基づいていてそこから何か規範や法則のようなものが導けるか。このことは各自のレポートにもゆだねられたが、俺はこの授業を通じて一つ気づいたことがある。
マルクス・アウレリウスの意識していた神とは一体どんな存在だったのか。自省録を読んでいくと、神に関連する記述が多く出てくる。それはしかし、全てを善きこととして設計する知力溢れる神であったり、逆に、人の基準になる善と悪には頓着しない言わばグノーシスの無知なる創造神であったり、あるいは慈愛に溢れるものであったり、逆に人知で推し測ることのできない暗い顔をした残酷な神であったり。時代からいえば彼の崇拝した神はヤハウェの神ではありえない。しかし、ではそれがギリシャ・ローマの多神教の、とりわけゼウスであるのかと言えば、俺が読み親しんだギリシャ神話に出てくる、あの夫人・ヘラを欺いてしょっちゅう浮気をしていたあまりにも人間的なゼウス像とは明らかに異なっているのである。
そう言えば、日本の神話にあらわれる神々も、不可知な行動を取ることは多いが、それに負けず劣らず人間的でユーモラスな存在のように描かれていることが多いと感じる。そんな人間的な神が、神社に祀られているさまを見るならば、何物のおわすかは知れない畏怖や崇敬の念を抱かずにおられないのである。この、神のキャラクターのブレは一体何なのだろう?ここから想起される一つの想像は、もともとギリシャの神にせよ日本の神にせよ、人間的な面に加えて、人の理解を遥かに越えた恐ろしい存在であったのだ。しかし、その神々の物語はその”なにごとか”を雄弁に伝えることはできず、ただ、その民俗誌的な部分だけが伝わったのではないのか、ということだ。たとえば「因幡の白兎」の話は、ワニザメを欺くトリックスター的な兎のキャラクターを生き生きと伝えてはいるけれど、「古事記」を良く読めば、その兎はその頃信仰されていた未来を預言する一柱の神格であったことがわかる。そのような、人知を超えた側面よりも、彼のトリックスターとしての側面の方がもっぱら後世に伝わったのではないのか。我々が神話を読む場合には、そこに隠されている畏怖の対象としての神々の暗いプロフィールを丁寧に読み解く必要があるのだろう、と思うのである。
_ それにつけても。今回の面接授業においてもまた、授業の論点を無視して我が事を語る「困った輩」がいたのにはすっかり参った。ただでさえ、『自省録』や哲学にシンパシーを強く感じていると思われる輩の、ともすれば議論を占有しようとしかねない”かぐわしい”言動が俺の自律神経をチリチリと焦がしていたところにそのような発言が長く続いたのにはとうとう堪らなくなってしまった。マルクス・アウレリウス自身は、そのような輩が自分に対してなんら影響を及ぼしはしないではないか、だから公共に尽くすという目的でないのならば、人が何をしているか何を考えているかと言うことに思い悩むな、といった趣旨の処方箋を与えている。だが俺はまだそれを自家薬籠中のモノとすることはできなかったし、何よりも授業の残り時間が15分を切っていた。ついに手を挙げて、その内容は、今論点としているマルクス・アウレリウスの挙げた処方には無いことであるから議論が発散している、と発言せざるを得なかったのだ。ストア派のマルクス・アウレリウスも、俺の私淑するエピクロスも俺にアタラクシアを求めよと勧めてくれた。しかし、この授業の最後はおよそアタラクシアには程遠いものだったのだ。自律神経の焦げる匂いは、その後入浴して食事を摂るまで続いたことだった。しかし、それ以外は大変有意義で楽しい授業だったのである。
_ ハローワールド、フロムS50。ウィンドウズタブレットから繋いでます。これ、今度帰省したら母の人に渡す予定。結構好い感じだが、アプリとかダウンロードするのはまだ良くわからず。とりあえずオフィスがすぐ使えるのは悪くないが、やはりキーボード欲しいよね。俺のホームページ、早速お気に入りに登録したから、毎日読みなw あと、らじるらじる も登録したから。