RSSフィード:http://alpha-ralpha.com/diary/index.rdf
2014-03-04 [長年日記]
_ [読書] 「ゼロ年代の想像力」宇野常寛、ハヤカワ文庫、2011.
日帰り出張。新幹線の中でほんのちょっとだけ仕事の資料に目を通したらあとは3日分の新聞を読んで(これが油断すると1週間分くらいカバンに入ってて結構重量も容量もかさばるんだ。俺、人事と番組表とスポーツと株式は読まないから半分くらい邪魔なんだが、それでも電子版には移行できない。切抜きと線引きが捗るアプリがセットになるなら移行するかもしれない)、それで読むものが無くなったので今朝気まぐれにコートのポケットに入れといた「ゼロ年代の想像力」を読み始めた。知らない言葉や知らない人名がたくさん出て来たので、初めの10ページくらいはほぼ各ページに付箋がついてしまう。「ニーバーの祈り(冒頭で引用。ニーバーはキング牧師をはじめ多くの人に影響を与えた神学者)」「東浩紀」「泣きゲー」など気になる。「ゼロ年代」とは2000年以降の10年間ほどのことを言っているらしく(単行本は2008年に出版されている)、1990年からの10年間と対比させて、セカイ系の想像力が、否応なしのサバイバル状況におけるそれへと変貌した様相を述べる。世界変えられないからもう何もしない、というのが90年代ならそのあとはでも何もしないと生きて行けないという悲壮感漂う状況なのだと。「バトル・ロワイヤル」とか「仮面ライダー龍騎」(←確かに、ライダー同士がサバイバルをかけて殺しあうこの作品はライダー史上最大のスキャンダラスな事件だった!)といった作品群はその時代の想像力を代表するものだった。最初の50ページほど読んでそういうことが書いてあった。
その読後感を抱きながらの家路、思いついたことがある。そうだ、確かに、俺たちはいまだゼロ年代のサバイバルゲームの中にいるに違いない。そして、このゲームに俺たちみんなが訳も無く叩き込まれたのだ。ほとんど何の準備もしていないのに。そんな中で、過去の経験や現在の手持ちの資源やパワーを持っているものは有利にことを運ぶことができることだろう。だが、何の備えもしていない実力無き者はゼロ年代の戦場の中で何ができるというのか?そうだ、だから彼らはチートする。人目を盗んでただ乗りにいそしむのだ。さまざまな生物の生存戦略の中にもそんな行動が織り込まれている。生存のためになら、ほかのオスの放った精液をメスの体内から掻き出すための器官を生殖器に発達させることだってするし、メスを偽装して強いオスを自らに誘いつつこっそり目当てのメスを犯すことだってする。実力のないものがサバイバル状況に置かれればそんなことはありふれた行動様式となるのだ。崇高であることは生存戦略にはなじまない。奴らが自らを正当化して恥じることがないのは、サバイバルのストレスにさらされつづけて扁桃体が緊張し続けているからなのだ。もちろん俺は奴らに同情などしていない。ただ、奴らとの消耗戦には巻き込まれたくはない。だから、圧倒的な正統派ストロングスタイルを目指したいと思う。俺は俺のチンコに精子掻き出し装置が発達するのを見たいとは思わないからだ。
せっかくだからニーバーの祈りを書いて、安らかな眠りを目指したい。この祈りはAAAでも使われてるみたいだ。Wikipediaより。
##日本語訳(翻訳者:大木英夫)
神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
_ 長谷邦夫さんが筒井康隆さんの「東海道戦争」を漫画化してたことを唐突に思い出した。買おうと思ったが古書で8000円くらいの値がついていて状態も良くはなさそう。これは上野のこども図書館に行くと読めるのかな?