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2014-06-18 [長年日記]
_ カツオのたたきのカマサクを買って早く帰宅。猫たちとシェアして食べるのだが、当然俺の取り分の方が多い。当たり前だ。ところで、それを造ってるときにふと思ったことがある。もしかしたら、苦しいことや哀しいことと悩むこととは別なのではないか。苦しいということや哀しいということから悩みは始まるのだろうが、苦しくてもその苦しさを認めてしまうような気の持ちようはあるんじゃないのか。そう思っているとついうっかり包丁で指の先を(皮より深い程度にすぎないが)切ってしまった。じんわりと痛みがやってきたが、仮に俺が、何もしないでただ、「痛いなあ。この痛みは何の報いなのだ。俺は正しく生きてきたというのに。これは天が俺を滅ぼすしるしなのか」などと四面楚歌の項羽のように悩んだとしたら、その苦しみは無くなるであろうか。なんかささやかすぎる譬えなので、より大きくより防ぎようも癒しようもない災いがおとづれたときに同じように考えることはできないのかもしれない。だが、そういえばわが私淑するエピクロスはこう言ってもいた。死は我々とは関係が無い。なぜなら、死んだ途端に我々は死や死の恐怖を感じる機能を失ってしまうし、死んでいない間はもちろん死んでいると感じているはずはないのだ。かの人はこのようにして通常セットで考えられることの多い死と苦しみを見事に切断した。ならば俺もそれに習って、苦しみと悩みを切断することに努めようかと思う。ただし、苦しい時は確かに苦しいのだから、苦しげな様子をしていることはしかたない。でもその時俺は、悩んではいないかもしれないのだ。まあ苦しくないのならもっといいのはもちろんのことだ。そうこうしてるうちに頼んでいた本が3冊届いた。「ハンニバル・レクターの記憶の宮殿」「仏教入門」「仏典を読む」である。第1のそれは記憶の宮殿への興味によって購入したが、残り2冊はご覧の通りで、苦難に立ち向かうヒントのようなものを、試験間近の高校生みたいな心境で買い求めたのだ。昨日の日記に書いたように、ヨブの物語を我がこととして我を慰めるには俺には信仰心と言うものが欠けている。だが、初めからこの世界が苦に満ちているという前提で話が始まるのなら、これは信仰とは関係なく受け入れることができると思ったのである。ショーペンハウアがこの考え方を受け入れることができたのもそんなところだったかもしれない。彼はあろうことか、本当に苦しんでいる者にとっては自殺が慰めになるとまで言っていたはずだ。これはヨブと生き方を同じうする人には絶対に認められないことだろう。かといってもちろん、仏教が自殺を勧めているということでは全くない。まあともかくも、内村鑑三の「ヨブ記講義」やユングの「ヨブへの答え」を読み味わうためにはまず「ヨブ記」を読んでいなくてはならないことが当たり前であるように、仏教が苦難とそれへの慰めについてどう解いているかを知るにはまず仏典に触れなくてはならない。触れなくてはならないはずなのに、少なくとも俺には、聖書に触れるほどの気安さで仏典に触れることはできない。地方のホテルに泊まるとときどき仏典と称する単行本がおいてあることがあるが、これがどのお経を元に書かれたものなのかまるで分らない。般若経なのか涅槃経なのか阿含経なのか全くわからない。仏典を読むには仏典の読み方をまず知らなくてはならないではないか。そこで仕方なくこれら入門書を読んだうえでそろそろと本来の仏典に触れて行こうという訳。これらの本だって放送大学の「仏教入門」の参考書に載ってたのを買い求めたのがそもそもなのだから、参考書の参考として放送大学の講義があったという実にまどろっこしいやり方を取らざるを得ないのだ。かかる意味において、日本には一度は仏教は伝わったのかもしれないが、今ではその教えはほぼ廃絶されたに等しいとも見える。少なくとも日本の神話ほどには経典の文章は親しみを持たれていないし理解もされていないと言えるだろう。中世の頃ならば物語の初めにも仏教説話が出てきて曽我兄弟の敵討ちと言う極めてパーソナルな物語にもそもそも世界の初めは、みたいなところから始まっていたのだが。廃仏毀釈の影響はかように大きいというべきか。そんなわけで、もう初歩の初歩から行かざるを得ないのである。つづく。
_ [コンピュータ] RGtk2.
ところで、調子の悪い時にはそれでも何か、やれることをやるしかないという「10円曲げ先輩」のアドバイスに従って、Rをいじくっていたのである。Rには世界中の研究者がこぞってさまざまなパッケージを提供していて、それはもうどこやらの数理システム会社一社や2社では太刀打ちできそうもないくらい多彩な機能を実現しているのである。俺もできればそういうのにコントリビュートしたいところなのだが、そういう実力も注意深さも時間も無いので、こんなところでRは良い、Rはすごいというくらいしか能がない。で、今日知ったのは、GTKというGUIを造るためのツールキットのR版というのがある、と言うことなのだった。使ったことのある人ならお分かりのように、Rと言うソフトはもともとがS言語と言う統計計算に特化したプログラミング言語なので、コマンド入力で使われることが多いと思う。このへんから知ったかで書いてるが、たぶん気が向いたら「きだ」が修正してくれることと思うのでわりと気楽に書いておくのだが、一方MS Officeのようなパッケージはマウスでボタンとかドロップダウンリストとかセルとかを触って入出力を促すいわゆるGUIというインターフェースが主流であること言うまでもない。なのでそういう使い方ができなくてウィンドウズのコマンドプロンプト(ウィンドウズができる前はマイクロソフトだってこんなのがメインの入出力インターフェースだったなんて知ってるのは今や人類の過半数以下だ。ちょっと計数おかしいが。いいこと教えてやんよ。ウィンドウズって昔はMS-DOSっていうOSの上で動くソフトだったんだぜ!←今は違うの?って思った人もいるんだろうな)みたいなところにキーボードで文字を入力するのはCUIって言われる。まあなんにせよ、CUIに慣れてる人は指の変なところにタコを作りながらひたすらたかたかたかっとコマンドを打ち込めばいいんだが、マウスに慣れている人からするとそれはちょっとなあ…ってことになる。Rにはそういう引け目があるのだが、頑張ればGUIを作れる!というのがこのRGtkというパッケージなのだ。GTKというのはオープンソースでフリーな、GUIをつくるためのツールキットであり、もともとはC言語で使うものなのだが、今はPerlとかPythonとかJavaとかPHPとかいろいろな言語で使えるものになっている。ソースコードレベルではWindowsとLinuxでも(ある程度の、だと思うが)互換性があるのもちょっと魅力に感じたりする。実はWinアプリを作るのにちょっと凝ってた頃に、このGTK(今はGTK+2が使われていることと思う)を勉強しようとして買った参考書がある。今RGtk2(Rのパッケージの場合なぜかtkが小文字)でハローワールドを書くと、
_ Rのばあい:
library(RGtk2) createWindow <- function() { window <- gtkWindow() label <- gtkLabel("Hello World") window$add(label) } createWindow() gtk.main()
_ Cのばあい(ウィンドウ表示するだけ):
#include <gtk/gtk.h> int main( int argc, char *argv[] ) { GtkWidget *window; gtk_init (&argc, &argv); window = gtk_window_new (GTK_WINDOW_TOPLEVEL); gtk_widget_show (window); gtk_main (); return 0; }
_ …いや、それぞれ別のところのチュートリアルからパクってきたのでどのくらい違うか俺にはまだわからんw。まあでも関数の書き方はやはりR流とC流で違ったりしているんだろう。Rだと=の代わりに<−って書いたりとかもある。そういうわけで1999年、いまだ喫煙者であっていろいろ煤けてるGTK+入門はどれほど役に立つかわからない。2もついてないし。まあどんなことができるかを絵本みたいに眺める役には立つか。そういうわけで、もはやRは一つのIDE(統合開発環境)と呼んでも良いものとなってしまっている。これで足りなければシステムコールを使えばいいし、ワークフローにしたければRAnalyticFlowを使ったらいいのだ。これで勝ち組と言えるかどうかは全く分からぬが。
そんなマニアックな話は知らないので突っ込めません。わし、若者だし。w <br>いや、RでGTKが使えるとは知りませんでした。勉強になります。 <br>先月Qtと格闘したばかりなので、おなかいっぱいですが。(^^; <br>クロスプラットフォームのGUIは魅力的なのですが、たいていネイティブの方が早いし、見た目もかっちょいいんですよねー。
知ってるじゃろ、あんた。えい、食らえCP/M! たしかにGTKはWindowsでもLinuxでもなんか四角張ってるというか、力入れて押さないとボタンが押せないような感じはする。気のせいみたいだけどね。あーなんか眠れねえ。
カツオのカマじゃなくてサクじゃない?カマって頭の部分じゃない? <br>
そーだね。