RSSフィード:http://alpha-ralpha.com/diary/index.rdf
2014-06-01 [長年日記]
_ 日付変わった。
_ [テレビ] SHERLOCK3
第2話。今回はワトソンの結婚式の中で事件が起こる。これまでのエピソードの中では一番センチメンタルな回だったと思う。ホームズのスピーチはちょっと冗長に感じた。ワンシーンだけアイリーン・アドラーが登場。次回、最終回。
_ 水道記念館、そして陣ヶ下渓谷へ。
_ ちょうど今日6月の初日なので、トップページのネタになる写真撮りに近間で涼しそうなところに行くことにした。横浜から相鉄に乗って和田町で降りた商店街が水道道(明治時代に水道敷設のために拓いた道ということのようで、あちこちにこういう名前の道がある)なのでてくてく。
2014-06-05 [長年日記]
_ たぶん俺んちのどっかにあると思うのだが、ジョージ秋山「ザ・ムーン」読みたい。全巻そろってない気もする。糞虫、お前は何だ?私めは糞にございますピルルルル。
_ というわけで寝床のそばの本棚をあさってみたが見つからぬ。それより驚いたことに「バスカビル家の犬」がおいてあって、最後の方まで書き込みしてあるところを見るとどうやら一読したようだ。全く内容を覚えてないよう。
2014-06-06 [長年日記]
_ 日付変わった。さすが梅雨時、6月6日にあめざあざあ、の日。葉っぱかな。葉っぱじゃないよ蛙だよ。蛙じゃないよ、アヒルだよ(別の歌い方もあった。ちょっと危ない)。
_ ザ・ムーン、第一巻だけあった。続きを覚えてないのでたぶんそれ以降は持ってないのだということにしてネットで注文した。楽しみ。。。
_ 思い出した。「葉っぱかな、葉っぱじゃないよ」って歌っておいてそのあとその葉っぱの絵に横線をいっぱい書き込んでエロいネタにするというのを発明したことがある。あれは高校の頃だったかのう。。。
_ そういえばケン・ラッセルの"Debussy Film"の字幕見つけたのだが、どうやらフランス語字幕のようだ。なんか字幕サーチソフトとかダウンロードサイトとか罠だらけで怖い。ブラウザのホームページもbingにすり替えられてしばらく直せなかったし。字幕ビジネスというのがネットの世界にはあったのか。英語字幕どっかにないのかなあ。。。→よく見たらDVD自体にsubtytleのOn/Offがあったよ。このDVDアメリカから購入したのでリージョン1なのだ。あと4回変更したらもう変えられない。この仕組み何とかしてよ。だいたいBBCのビデオなのになんでイギリスで買えなかったんだよ。まあでも良かった。これでリスニングの練習が捗る。
2014-06-07 [長年日記]
_ 日付変わりにけり。さすがの大雨となった。可成屋の徳島ラーメン食べに行きたい。代々木駅そばにある。
_ 雨の中英会話に。実は朝方しばらく調子が悪くてなかなか宿題をする気になれなかったが朝食にバナナ食べて何とかこなし、出かける。過去に重要なdecision makingをしたことがあるかという課題に、天城峠で迷って真っ暗になってビバークすることに決めた話をする。天城で野宿をするときにイノシシに出会わないようにと心配していたという話をした。イノシシの牙はfang ではなくてtuskと言う。
_ 帰宅してなんとなくネットサーフィンしてるとベッキーの木部さんの動画を発見。こやつは天才だ。シダックスでベッキーの歌を歌ってると背後に木部さんがいるかもしれないぞ!
_ SHERLOCK3。
第三話。今回のびっくりポイント:ジョン・ワトソンは全然普通の人じゃなくて、危険人物にどうしても惹かれてしまう変態性志向の持ち主だった。このラストはどうみても第4シーズンにつながるべきものだ。うん、俺も会いたかった。このくらいにしとくか。面白かった、いつものように。
_ うにゃ [良い情報ありがとうございます]
2014-06-09 [長年日記]
_ [漫画] ザ・ムーン
文庫版全4巻を入手した。「ぼくらの」を読んでから読んだせいで、最初から物語の悲壮な終劇を予感しながら読むしかなかった。サンスウら9人の子供たちとザ・ムーンの力をもってしても地球の破滅を救うことはできなかった。最後の戦いの前に板チョコを分け合って涙ぐみながら食べるシーンは、俺の大好きだった「ガイコツくん」や「パットマンX」にある善良なジョージ秋山なのだった。久しぶりに泣けた。マンガ読んで泣けてしまうのはこのドラマのせいだけではないかもしれない。梅雨時に入るより少し前から「チャーチルの黒い犬」が姿を現し始めていて、今も俺の尻に喰らい付いて離れようとしないのだ。まあなんというか、こういうときはもう仕方がないのかもしれない。だが、チャーチルに限らず、この黒い犬に喰らい付かれながらも偉大なことを成し遂げることのできたものも多くいるのだ。
_ [読書] 「マテオ・リッチ 記憶の宮殿」ジョナサン・スペンス著吉田訳、平凡社、1995./「ハンニバル・レクター博士の記憶の宮殿」リチャード・マクドナルド著、関訳、夏目書房、2001.
例によって和訳は絶版だが原書のペーパーバックは手ごろな価格で入手が可能だ。上記のように黒い犬に噛みつかれているので、仕事をそこそこにして、黒い犬に噛まれながら、川崎の図書館に行って借りてきた。最初の20ページくらい面白かったら原書を買うつもりだ。なぜこれを読もうとしているかというと、そのきっかけは先日のSHERLOCK3最終回だ。シャーロックも利用しているのだが、ヨーロッパの歴史ある記憶術である「記憶の宮殿」に興味が出たからだ。「記憶の宮殿」のことはSHERLOCKより以前、小説版の「ハンニバル」で知った。頭脳の中に、記憶と関連付けられた建築の内部構造を構築することで、記憶をイメージ化して固定化する方法だ。SHERLOCK3最終話には、この「記憶の宮殿」をシャーロック以上に十分に活用することのできる人物が登場する。ハンニバルの場合はこの宮殿に耽溺することによって現実の肉体的苦痛から逃れることさえできる。そういうわけで、図書館で検索に引っかかった「ハンニバル・レクター博士の記憶の宮殿」も一緒に借りてきた。たぶんどっちも全部読まないで返すんだと思う。俺の[読書]カテゴリーの記事は、「読んだ」という記事よりも「買った」とか「借りてきた」とかいう入手の記事の方が圧倒的に多いんじゃないかと思う。昔からテストが迫ったりして不安になると参考書を買いあさって勉強自体には身の入らない性質だが、このような行動はトランキライザーでありまた意欲のバロメーターでもあるのでもうこの年になるとそれで積読の積載量が増えることにはいささかの後悔もない。全部記憶の宮殿に所蔵しておければ俺の部屋はすっきりするんだろう。書斎のでかい本棚がだいぶ歪んできていてちょっと危ない状況。もうこんな棚いらねえ、カラーボックスを組み合わせて使う方がよっぽど有効だ。それでいいんだが、どうやって入れ替えていけばいいのか。入れ替え問題を効率良く解くためにはバッファとなる空間的余裕が十分なくてはいけない。メモリがたくさん使えると速いアルゴリズムをつかうことができるのと同じこと。言ってても仕方ない。この、尻に喰らい付いた黒い犬がちょっとは役に立ってくれれば良いのに。だがそれを期待することはできない。
2014-06-10 [長年日記]
_ チャーチルの黒い犬はカフカにとってはネズミなのだったらしい。そういう本が手に入った。俺は同じような状況になった時には自分が人間じゃなくなったような感じになる。ただただ悲観的であって存在の価値などまるで感じられない。そんな時の俺は確かに人間的であるとは言えない。だが今日は少しましになった。ここ2か月くらいどうしようか悩んでいた問題にどうやら解法が見つかったようなのだ。まあ気が付いてしまえば大した問題ではなかった。それよりもどうしてこの解法に至るのに時間がかかってしまったかが問題だ。たぶん俺がとりたくないと思っていたやり方に近いからなのだ。だが、今見直してみれば、今日までの俺の考え方の偏狭さが恥辱的だ。まあ明日はこの仕事をやる。きっと上手く行くだろう。
_ そういうわけで遅い晩飯取りつつ「あまちゃん」見てるわけだが、天野春子ことキョンキョンがさあ、まあなんというか一挙手一投足が隙だらけで、けどそう簡単にはどうにもできなさそうなとこがたまらん。よく見るとちょっと顎が割れてるのも良い。
2014-06-11 [長年日記]
_ 簡易カッター付き。
_ なつかしいなーこれ。小学校の時とか使ってたわ。これ最強。だいぶ黄ばんでるけど。
_ そういう訳で、今日もまだ黒い犬が俺にまとわりついている。今日気づいたが、この黒い犬は俺のことを笑っているようだ。今までやってきたことが全て価値の無いことだと、笑うのだ。俺にはどうすることもできない。誰よりもそいつの言うことが正しいと知っているのは自分なのだから。こういうとき、ウィンストン・チャーチルは読書と著述に耽溺することにしていたらしい。前者には賛成だ。特に人間の崇高さを確認できるような思想書や伝記のような書物が望ましい。後者について言えば、俺には計算が良い。あまり難しすぎず、でも手順を追えば答えが得られてその結果も少なからず意外であるとなお良い。自信が回復できるように、そして集中できるように。エイダ・ラブレースが幼いころに数学を勧められたのと同じ理由によって、俺はそれをマイナー・トランキライザーのように使うだろう。計算が苦手なら庭をいじったり箱庭をいじったり、コラージュを作ったり、あるいは素数を数えるのも良いだろう。
_ そんなこと書いてて思い出したのだが、バベッジの助手をしたバイロン卿の娘、メアリ・シェリーの親友であったエイダの姓はラブレース。一方、70年代に大ヒットしたポルノ映画「ディープ・スロート」の主演女優の名を俺は何故か覚えていた。リンダ・ラブレースと言う。似てるよねって書こうと思ったのだが、両者の名前をアンドで検索してみるとAIDAもLINDAもどちらもプログラミング言語の名前として使われており、特に後者は意図的なギャグとして名づけられたらしいのだった。
_ [漫画] 「ただいま’69」河あきら、ジュールコミックス、2013。
新刊が出てたのは全く気付かなかった。俺の嗜好はぶれすぎていてもはやアマゾンのおすすめ機能も正常に動作しないということなのか。
そんなことより。読み始めて懐かしかったのだが、カバー袖に河さんのデビューは別冊少女マガジンに掲載された「サチコの子犬」で1969年とある。ここからの漫画人生だけでも45年と言う超ベテランということはさておいても、そういう頃がまさに舞台となっているタイムスリップものであって、当時の雰囲気を知り尽くしている作者ならではの作品である。俺にとっては少しお姉ちゃんの知っている昔の話と言うことになるが、タイムスリップしたヒロインが新宿を訪れて「ウソ〜〜っ 都庁がない〜〜っ どこの新宿なの〜っ」と衝撃を受けるところがウケた。その新宿で出会ったフォークゲリラに一目ぼれするヒロインなのだが、この辺読んでて俺にはもの凄く懐かしい河さんの作品「木枯らし泣いた朝」がよみがえってきたのだ。たぶん前にもこの日記には書いたと思うが、俺にとっては初めて買った少女漫画の単行本であり、その装丁があまりにも少年漫画と違っているのになぜか興奮した、という記憶があるのである。作品の内容は、フォークと深夜放送が重要な意味を持つメロドラマで、コマーシャリズムに乗せられて仲間の歌をパクってしまう登場人物話やら脳腫瘍で夭逝してしまう主人公の意思を次いで彼の歌を歌い続けようと決意するお嬢様育ちのヒロインやらでたぶん今読むとしてもハンカチが2枚要る。さて「ただいま’69」だが、これは「たった今が1969年」と言う意味かと思ったが、最終話でこれは「ただいま」「おかえり」のただいま、であったことがわかる。この話の扉に「最終話」と書いてあるのを見るまで、短期連載であるとは思わず、「いらかの波」や「ご町内のミナさま!」「Wonder!」のように長期連載が始まっていたのだと思っていた。そして、この最終話のいたるところにみられる人物のデッサン狂いを見出して、これはその長期連載が打ち切られて作者のモーティベーションが下がってしまったことによるものと思い込んだのだが、あとがきにあたる「はじめての入院」という2ページの漫画で、河さんはこの最終話のネームを上げた時点でクモ膜下出血を発症して緊急入院。一命を取り留めて自宅療養しつつ完成させたということだった。「かんなぎ」の武梨えりのエピソードを思い出したりなんかもした。河さんはその入院のエピソードを漫画のネタにして「パンダのパ」という作品を描きはじめてるというしぶとさ。まあしかし無事でよかった、本当に。
2014-06-12 [長年日記]
_ あーりんが反抗期なのは知ってた。俺もいまちょっと反抗期なんだ。こーきこーき反抗期。けーりんのことオヤジって言うな!けーりんだよぉけーりんだよぉ。もう今日はシュークリーム3個食べる。
2014-06-13 [長年日記]
_ 朝イチの会議で、あまりにも低レベルな内容が45分くらい続いてて、いたたまれずに抜け出して中庭でぐったりしてた。このレベルの低さに俺は傷つくのだ。こんなレベルが許されるというのなら俺の目指してる仕事の仕方は一体なんだというのだ。チャーチルが多くのことを成し遂げたにもかかわらず全てがむなしいと思ったのはきっとこんなときなのだと思っていた。今日も黒い犬が付きまとっている。そこにたまたま、10歳ほど年上の先輩がやってきて声掛けをしてくれたのだ。この人も若い時は足の指でコインを曲げたりなんかして今の俺なんかは問題にならないほどのマイト・ガイなのだが、公私ともにいろいろあって今はすっかり人間的に深みを増している。いつの間にかこの人をリスペクトするような生き方になっているな、などと思う。ダメ人間、それでも生きていかざるを、得ない(大槻ケンジ『踊るダメ人間』)。そして当の低レベル氏は俺がこんな風に深く傷ついていることなどよもや知る由もなく、必死に己の生存戦略を繰り広げているのである。俺には認めることはできない。それを認めたなら、俺には人間の尊厳を信じることなどもはやできないからだ。人間には尊厳なんかない。崇高な望みなど幻想だ。人は向上することなど決してできない。毎日グングンと成長する音をさせていたというH.G.ウェルズの家から聞こえてた音は単に下劣な行為の結果に過ぎない。ああ、この世界がそういう世界のように見えてしまう。そういう世界は嫌だ、住みたくない。このナイトメアはいつ終わるのか。今宵の眠り次第であろうと思う。ますます反骨の尖りが増す今日この頃、久しぶりの梅雨の中休みだ。おりしも流れるジョン・バリーの「ある日どこかで」のテーマ。ジェーン・シーモアの美しさ。印象的な晩年を送った若きクリストファー・リーブ。あれこそが本当の世界だ。主人公リチャードのように繰り返しつぶやこうか、僕は戻る、僕は戻る…。
_ うにゃ [おりしも→おしりも と読んでしまった(−_−;) 中庭いいね〜 天気良かったから暑そうだけどね。 我が名は..]
2014-06-14 [長年日記]
_ 午後の英会話の宿題などするがなかなかに捗らない。つまらぬことかも知れないが、それでも何か一つ、こうと決めて始めたことはやり通した方がいいのではないのか。意味があるかどうかは全く分からない。まだ足元にまとわりついている黒い犬のせいで、ヒトと話すのもきついものがあるのだが、まあなんとかこなしてきた。何度となくキャンセルの電話をしようと思ったのだ。50分ほどのレッスンを終えて、やりきった感よりは疲れが残った。日曜もクラスがある。宿題はCEOへの提言のレポート。
2014-06-15 [長年日記]
_ そういうわけで午後の英会話の宿題をやっていた。内容は、社員のモーティベーションを上げるためのいくつかの提言をCEOにメールで送る、というものだが、そんなこと実際にはやることは無いだろうと思いつつも、まあ書いた。普段感じていることを文章にするだけだったので内容は高度なものではない。わかりやすいキャッチフレーズ(←こういう英語は少しおかしいように思う、といつもの師匠は言った。"motto"が良いのではないかと。余談だが師匠最近ミニスカなので俺は劣情を隠すのに結構必至だ。しかしターミネーターの"I'll be back"なんていうのもキャッチフレーズである、と英語版ウィキペディアには書いてある)にしたり、社長がテレビ出演してビジョンを語ったりするのは株主や顧客ばかりでなく社員にとっても有意義なのでは、とかそういう提言だ。まあ俺みたいなもんが言うようなことじゃないんだが。それでe-mailを書いて持ってったら今日はいつもの師匠じゃない女性講師で、なんとなく不愛想に見えたがたぶんこれは普通なのだ。比較で言うならいつもの師匠は比較的良く笑う人なのだろう。来週はよんどころない事情で休み。その次はスクールホリディでまた休み。
_ 世界を変える力なんか自分には無いのだという無力感は、有無を言わせない不幸の到来によって無理矢理に与えられてしまうこともある。なぜこのような不幸が自分に起きてしまうのか。そんな想いに駆られて怒りを覚えるとき、俺には思い出す一人の男の名前がある。その名をヨブという。彼は突然に財も家族も失いそれでもなお信仰を失わなかったのだが、我が身にも病苦が訪れる。この物語は、身に降ってわいた不幸を忍ばねばならない多くの人に慰めを与えたことだろうと思うが、聖書の中にあっては異色であって、ヨブ記においてもヨブの疑問に対しては同じ立場での回答は与えられるわけではないようだ。それでユングの「ヨブへの答え」を再び手に取ろうとしたのだが、例によって我が家のビッグデータの中に紛れ込んでしまっている。英会話の帰り道に立ち寄った本屋で、内村鑑三の「ヨブ記講演」という書が岩波文庫から5月の新刊として出ていることを見出したのだった。わが内村鑑三がこのようにヨブ記を問題として取り上げていることにちょっと感動を覚えて、珍しく本屋で買った。冒頭に、これが教訓集の最初に、しかもヨブと言うユダヤ人にとっては異邦人の物語として置かれているその位置づけを問題にしており、ヨブの問題を「個人的であるがゆえに普遍的」と言っている。この書が俺に何かの回答を与えてくれるかどうかはわからないが、一つ思ったことは、理不尽と思うことであってもそれはノンゼロの確率で自分に起こりうることであるともしも正しく理解していたなら、その出来事は理不尽なことでないと思うことができたかどうか、である。あらかじめ準備されていた出来事が起きるなら、覚える怒りは少ないかもしれない。そういう状態は望ましいだろうか?ジョジョの奇妙な冒険でプッチ神父は、未来に何が起こるかを誰もが知っていてこれから起こりうることに対して「覚悟ができている」状態こそが天国に至る道と考えた。降ってわいた不幸などない世界。だがあらかじめ不幸な状態に陥ることを知っていて逃れようがないと思ったら、ヒトはなにをするだろう?逃れようのない不幸を、たとえば自らの信念や信仰のためされる機会であるととらえてそれを歓ぶように考え方を変えてしまうというのは一つの方法だろう。これを宗教的マゾヒズムと呼ぶのが物議を醸すのなら、信念的マゾヒズムと言い換えても良い。如何に崇高な考え方がバックボーンにあったとて、マゾヒズムと言う変態であることに違いは無い。このような病理が英雄的な行為につながる可能性もある。そこで改めて、チャーチルが何を成し遂げて何をも成し遂げられなかったと絶望したことを思ってみたい。今日も支離滅裂。
2014-06-16 [長年日記]
_ [読書] 「ヨブ記講義」内村鑑三、岩波文庫、2014。
ビルダデの第一回討論のあたりまで読んだところ。内村鑑三は単にこの書の宗教的の価値だけを説くにとどまらず、書かれている言葉の数々に対して考証を行なっている。たとえば、旧約聖書には「『獅子』を表わす5つの異なる語があり、このことは物語の成立した場所が獅子の頻出する地方であったことを語る、とか葦がpaperの語源であるパピルスを意味するとか。このような緻密な考証を基礎として、ヨブ記に語られる事柄を、次にはそれを現実の人間が発したものであったならそれはいかなる当時の教義に基づいて発せられたものであるのか、あるいはそのあまりに”神学的”でありすぎて被災者の心情に寄り添わない言葉を受け取ったものすなわちヨブがどのように感じたとするのが自然であるのか、などを吟味し、この物語が実験的、すなわち本当の体験を元として書かれたものであるという立場をとる。このことは、また内村自身がヨブ記によって大いに慰められた過去を持っていることにもよるようだ。つづき読んでいく。ところで、喜ばしいことに、我が家のビッグデータの中から、ユング『ヨブへの答え』(秋山さと子訳)と岩波文庫版『ヨブ記』がマイニングされたので、併読することができる。
2014-06-17 [長年日記]
_ [読書] 「ヨブ記講義」内村鑑三、岩波文庫、2014/「ヨブへの答え」C.G.ユング、秋山訳、ヨルダン社、1981/「ヨブ記」関根訳、岩波文庫青、1971.
3冊枕元に並べてそれぞれ少しづつ読んでいると、ユングはともかくとしても、この書が苦難にあった人間にとって大いなる慰めとなるための境界条件があるということに気づいた。旧約聖書の世界において、内村は苦難に3種あると説く。1は罪の結果として起こるもので、因果応報ともいうべきものである。2は神の懲らしめのためのそれであって、ゼウスの雷に類するものである。3が難しい。これは、信仰の試しのための苦難である。ヨブを慰めんとしておとづれた三人の友がかえってヨブを苦しめたのは、この第3の苦難のことを知らなかった当時の神学の限界なのである、と内村は解く。それに従うのならば、ヨブの苦難とその贖いの物語によって慰められることのできるのは、ひとえにその信仰を貫く人々だけなのであって、その前提となる信仰を持たぬ俺にとっては、彼の苦難に同情を覚えることはできても同じ慰めや贖いを得ることはできない、ということになる。彼らは言う、信仰の扉はいつも開かれているのだと。だが俺はむしろ意固地になってこう言うだろう、俺には神と言う仮説は必要ないのだ、と(ラプラスがナポレオンにこう述べたということだが、出典がわからない。後世の府会であるかもしれない)。いっそ、どのようなものであれ、苦難ははじめからこの世界に満ちているのだと言われる方が俺にはわかりやすい。この世界は苦渋に満ちており誰もそこから逃れることはできない。信仰篤き者にも篤からぬ者にも等しくそれらはおとづれうる。それは正しさを試されるものではないが、信仰の篤いものならばそれを試として受け入れることだろう。ではそのような試練ということを仮定しない者には苦難に対する慰めを得ることができないのか。俺にはさらにたどるべき道があるように思われる。
_ 思い悩むことの多い日常の中にあってもささやかな慰めは与えられるものと見える。今朝がたの夢の中で俺は見知らぬ土地を旅しており、珍しい土地の食べ物を手に入れたり、絶望的に宿の取れそうもない岩屋の集落の中で思いがけぬ歓待を受けたのだった。この夢の中の旅は、本当の旅と同様に脳内にβエンドルフィンを幾分か分泌させたようだった。目覚めるとともに何も状況は変わっていないことに思い至る他はなかったのだが、そういうこともあるのだと気付いた。
2014-06-18 [長年日記]
_ カツオのたたきのカマサクを買って早く帰宅。猫たちとシェアして食べるのだが、当然俺の取り分の方が多い。当たり前だ。ところで、それを造ってるときにふと思ったことがある。もしかしたら、苦しいことや哀しいことと悩むこととは別なのではないか。苦しいということや哀しいということから悩みは始まるのだろうが、苦しくてもその苦しさを認めてしまうような気の持ちようはあるんじゃないのか。そう思っているとついうっかり包丁で指の先を(皮より深い程度にすぎないが)切ってしまった。じんわりと痛みがやってきたが、仮に俺が、何もしないでただ、「痛いなあ。この痛みは何の報いなのだ。俺は正しく生きてきたというのに。これは天が俺を滅ぼすしるしなのか」などと四面楚歌の項羽のように悩んだとしたら、その苦しみは無くなるであろうか。なんかささやかすぎる譬えなので、より大きくより防ぎようも癒しようもない災いがおとづれたときに同じように考えることはできないのかもしれない。だが、そういえばわが私淑するエピクロスはこう言ってもいた。死は我々とは関係が無い。なぜなら、死んだ途端に我々は死や死の恐怖を感じる機能を失ってしまうし、死んでいない間はもちろん死んでいると感じているはずはないのだ。かの人はこのようにして通常セットで考えられることの多い死と苦しみを見事に切断した。ならば俺もそれに習って、苦しみと悩みを切断することに努めようかと思う。ただし、苦しい時は確かに苦しいのだから、苦しげな様子をしていることはしかたない。でもその時俺は、悩んではいないかもしれないのだ。まあ苦しくないのならもっといいのはもちろんのことだ。そうこうしてるうちに頼んでいた本が3冊届いた。「ハンニバル・レクターの記憶の宮殿」「仏教入門」「仏典を読む」である。第1のそれは記憶の宮殿への興味によって購入したが、残り2冊はご覧の通りで、苦難に立ち向かうヒントのようなものを、試験間近の高校生みたいな心境で買い求めたのだ。昨日の日記に書いたように、ヨブの物語を我がこととして我を慰めるには俺には信仰心と言うものが欠けている。だが、初めからこの世界が苦に満ちているという前提で話が始まるのなら、これは信仰とは関係なく受け入れることができると思ったのである。ショーペンハウアがこの考え方を受け入れることができたのもそんなところだったかもしれない。彼はあろうことか、本当に苦しんでいる者にとっては自殺が慰めになるとまで言っていたはずだ。これはヨブと生き方を同じうする人には絶対に認められないことだろう。かといってもちろん、仏教が自殺を勧めているということでは全くない。まあともかくも、内村鑑三の「ヨブ記講義」やユングの「ヨブへの答え」を読み味わうためにはまず「ヨブ記」を読んでいなくてはならないことが当たり前であるように、仏教が苦難とそれへの慰めについてどう解いているかを知るにはまず仏典に触れなくてはならない。触れなくてはならないはずなのに、少なくとも俺には、聖書に触れるほどの気安さで仏典に触れることはできない。地方のホテルに泊まるとときどき仏典と称する単行本がおいてあることがあるが、これがどのお経を元に書かれたものなのかまるで分らない。般若経なのか涅槃経なのか阿含経なのか全くわからない。仏典を読むには仏典の読み方をまず知らなくてはならないではないか。そこで仕方なくこれら入門書を読んだうえでそろそろと本来の仏典に触れて行こうという訳。これらの本だって放送大学の「仏教入門」の参考書に載ってたのを買い求めたのがそもそもなのだから、参考書の参考として放送大学の講義があったという実にまどろっこしいやり方を取らざるを得ないのだ。かかる意味において、日本には一度は仏教は伝わったのかもしれないが、今ではその教えはほぼ廃絶されたに等しいとも見える。少なくとも日本の神話ほどには経典の文章は親しみを持たれていないし理解もされていないと言えるだろう。中世の頃ならば物語の初めにも仏教説話が出てきて曽我兄弟の敵討ちと言う極めてパーソナルな物語にもそもそも世界の初めは、みたいなところから始まっていたのだが。廃仏毀釈の影響はかように大きいというべきか。そんなわけで、もう初歩の初歩から行かざるを得ないのである。つづく。
_ [コンピュータ] RGtk2.
ところで、調子の悪い時にはそれでも何か、やれることをやるしかないという「10円曲げ先輩」のアドバイスに従って、Rをいじくっていたのである。Rには世界中の研究者がこぞってさまざまなパッケージを提供していて、それはもうどこやらの数理システム会社一社や2社では太刀打ちできそうもないくらい多彩な機能を実現しているのである。俺もできればそういうのにコントリビュートしたいところなのだが、そういう実力も注意深さも時間も無いので、こんなところでRは良い、Rはすごいというくらいしか能がない。で、今日知ったのは、GTKというGUIを造るためのツールキットのR版というのがある、と言うことなのだった。使ったことのある人ならお分かりのように、Rと言うソフトはもともとがS言語と言う統計計算に特化したプログラミング言語なので、コマンド入力で使われることが多いと思う。このへんから知ったかで書いてるが、たぶん気が向いたら「きだ」が修正してくれることと思うのでわりと気楽に書いておくのだが、一方MS Officeのようなパッケージはマウスでボタンとかドロップダウンリストとかセルとかを触って入出力を促すいわゆるGUIというインターフェースが主流であること言うまでもない。なのでそういう使い方ができなくてウィンドウズのコマンドプロンプト(ウィンドウズができる前はマイクロソフトだってこんなのがメインの入出力インターフェースだったなんて知ってるのは今や人類の過半数以下だ。ちょっと計数おかしいが。いいこと教えてやんよ。ウィンドウズって昔はMS-DOSっていうOSの上で動くソフトだったんだぜ!←今は違うの?って思った人もいるんだろうな)みたいなところにキーボードで文字を入力するのはCUIって言われる。まあなんにせよ、CUIに慣れてる人は指の変なところにタコを作りながらひたすらたかたかたかっとコマンドを打ち込めばいいんだが、マウスに慣れている人からするとそれはちょっとなあ…ってことになる。Rにはそういう引け目があるのだが、頑張ればGUIを作れる!というのがこのRGtkというパッケージなのだ。GTKというのはオープンソースでフリーな、GUIをつくるためのツールキットであり、もともとはC言語で使うものなのだが、今はPerlとかPythonとかJavaとかPHPとかいろいろな言語で使えるものになっている。ソースコードレベルではWindowsとLinuxでも(ある程度の、だと思うが)互換性があるのもちょっと魅力に感じたりする。実はWinアプリを作るのにちょっと凝ってた頃に、このGTK(今はGTK+2が使われていることと思う)を勉強しようとして買った参考書がある。今RGtk2(Rのパッケージの場合なぜかtkが小文字)でハローワールドを書くと、
_ Rのばあい:
library(RGtk2) createWindow <- function() { window <- gtkWindow() label <- gtkLabel("Hello World") window$add(label) } createWindow() gtk.main()
_ Cのばあい(ウィンドウ表示するだけ):
#include <gtk/gtk.h> int main( int argc, char *argv[] ) { GtkWidget *window; gtk_init (&argc, &argv); window = gtk_window_new (GTK_WINDOW_TOPLEVEL); gtk_widget_show (window); gtk_main (); return 0; }
_ …いや、それぞれ別のところのチュートリアルからパクってきたのでどのくらい違うか俺にはまだわからんw。まあでも関数の書き方はやはりR流とC流で違ったりしているんだろう。Rだと=の代わりに<−って書いたりとかもある。そういうわけで1999年、いまだ喫煙者であっていろいろ煤けてるGTK+入門はどれほど役に立つかわからない。2もついてないし。まあどんなことができるかを絵本みたいに眺める役には立つか。そういうわけで、もはやRは一つのIDE(統合開発環境)と呼んでも良いものとなってしまっている。これで足りなければシステムコールを使えばいいし、ワークフローにしたければRAnalyticFlowを使ったらいいのだ。これで勝ち組と言えるかどうかは全く分からぬが。
2014-06-23 [長年日記]
_ こっちはやはり蒸しますえ。ちょっと時間があったので、かねてより懸案のスポーツジム見学に行った。そしてもう申し込んだ。マシンが思ったより数がありあまり混まないようなのとか温泉浴ができるとか空いてれば使えるスペースがあるとか通常クラスで水泳も習えるとかなかなかいいように思えたゆえ。
2014-06-24 [長年日記]
_ CUSUMはどうしてこうも上手く行くのか…
_ 哀しいことがあったよ。AMAZONの「今は買わない」リスト、600を超えると古いのから消えてしまうのだった。つまり、読みたいリストの代わりにすることはできないということだ。もっといい方法が必要だ。これは、絶版恐怖症である俺にとっての安全弁なのだから。
_ 嬉しいことがあったよ。AMAZONはアカウントを複数使うことができたのだ。なるほろほろ。
_ で、さっそくだが、こんな変なボードゲームを見つけてしまった。これは欲しいだろ。あと、ロード・キラから救ってもらうためにオオイシを探して東海道を旅する美しいレディ・アサノのアドベンチャーとかも見つけちゃったよ。うは、これ読みてえwww
_ なんか興奮してきたのでもうちょっと検索。中学の頃結構夢中になったラリー・マドックのT・E・R・R・Aの工作員シリーズで主人公ハンニバル・フォーチュンの良き相棒、不定形生物のウェブリーが単独で活躍するシリーズがKindleだけで読めるらしい。あーこれは困った。。。←困るのはまだ早い。Kindle for PCダウンロードする。
2014-06-25 [長年日記]
_ ジム行ってきた。
本当は7/1からの利用になるのだが、契約の際に俺の決断を促そうとしてスタッフさんが優待券を3枚くれたのだ。その1枚を使って、夜のヨガクラスに参加。あちこちだいぶ堅くなってるし、腹部の脂肪もだいぶ厚みを増している。だが少しやっているうちにダウンドッグがいい感じに決まり始めて、体がヨガと言う生き方を思い出し始めた。シャヴァ・アーサナのときにこの心地良さに感動を覚えて目頭が熱くなった。これが本当に"生きている"ということ、地球の中心からはるか天に向かう一本の線上に俺が実在している、という肉体感覚なのだ。死体のポーズをしながらそう思うというのも何ではあるが。つまりヨガ行法を行なうものは、そのことによってようやく自らの肉体の主人となれるということだ。終了後は施設の温泉浴を利用。この選択は良い選択だった。次はオリエンテーションを受けてからマシントレーニングなども始めるつもりだ。そこで俺がしなくてはいけないこと。それはプロテインを購入することに他ならない。バニラ味のやつ買って寝る前に飲む。
_ [新聞を読んで]ちらしずし駅弁が消えた!!
日経の文化欄で紹介されていた自費出版本なのだが、残念なことにもう増版しないということらしい。国会図書館にも収蔵されていない。あー読みてえなあ!
2014-06-26 [長年日記]
_ また黒い犬が周りをうろつき始めた。ボブ・ディランの"Like a rolling stone"の歌詞のもとになったホテルの便箋の書付が2億円で落札されたという。それでこの曲を聴いてみている。今までは特になんとも思ってはいなかったのだが、歌詞の対訳なんか読んでると泣けてくるようだ。彼なら今の情けない俺に、どんな辛辣な言葉を投げかけるのだろうか。人のつくりしものの多くは取るに足らず、価値など全くないのにさもありそうに喧伝しているばかりのものがほとんどだが、それらとは絶対に違うものもある。そんな、重要なものだけを気に掛けていられたらいい。そうして、チーター(←チートする人のことw)の戯言と自分とは関係が無いということを実感できたらいい。俺たち生きているものが、死とは何の関係もないと信じられる程度には、だ。不正は、小さくこそこそと行われていることこそが実は大きな罪悪であり病理であり、ガンマナイフのようなもので一つ一つ無くしていくより他に無い。人の世にあって、こっそりと、そして次々とやがては重大な患部へと転移していく許されざる病巣よ。俺は心からそれを憎んでいる。
_ ウィダーのカルニチン入りのバニラ味のプロテインが生産中止になっていた。何と言うことだ。そこでザバスのヨーグルト味の奴を注文したのだが、さあ、どうなんだろうな。プロテインがくそまずいのではトレーニングのモーティベーションは上がらない。
_ レディ・アサノが活躍する"The Tokaido Road"、アマゾンでポチってしまった。無駄な買い物にならずに済むように。
2014-06-27 [長年日記]
2014-06-28 [長年日記]
_ [放送大学]面接授業
中国の伝統医学と天文学。5月からの第3回目となる。天文学はあまり興味が無いのだが、意外に楽しめる。が、隣に座った老いた同級生が曲者だ。彼は15分遅れて入ってきて一応板書をメモするもののなんだかわからないコピーにマーカーを記入したりして内職している。遅刻して入ってきて授業と言うものを莫迦にしていると思ってたら、この日の授業の終わり、帰り際にその内職のコピーを手にして「私は竹内文書を研究しているのだが、この間のなんとか戦(俺はサッカーには一切興味が無いから日本がどこと戦って負けたかなんか知らない)で日本が負けたことも書いてあって云々」と妙な文書を手渡そうとする。もらっても読む暇がないと拒否したのだが、会社でストレス感じて放送大学でもストレス感じると堪らん。
2014-06-29 [長年日記]
_ [放送大学] 面接授業・続き
今日は開始ぎりぎりにクラスに到着。すると開始15分以上過ぎてからまた昨日と同様に竹内老人(俺は昨日以来彼のことを心でこう呼んでいる)が入ってきた。今日は俺とは違う人の隣に座った。授業は非常に面白かったし、日時計を応用して二十四節気を知る方法など楽しかったのでうちの玄関先のコンクリートに刻んでも面白いだろうと思っていた。だがその楽しげな気分は授業の最後の竹内老人の質問によってそがれてしまった。「友引とか先勝とかのエネルギーを測る計測器はあるのか?」放送大学は完全に開かれた大学である。だが、良識や思想的活動などに関する一定の条件を満たしていることを入学の条件にしても良いのではないかと感じることもあるのである。
_ 今日はジムのオリエンテーション。マシンの説明一通り受けて少し筋トレもやってきた。そのあとのヨガが超混んでた。今日は代行の先生だったようだがいつもの先生も人気があるようなので日曜の夕方はいつも混んでいるのではないか。マシンも少し混んでいた。日曜は朝がいいかもな。でも楽しめた。自転車で行ったのに帰りどしゃ降り。帰宅してヨーグルト味のプロテイン飲んだ。まあ悪くない。でもバニラ味のが良かった。バニラエッセンス入れるかな。
2014-06-30 [長年日記]
_ 今日は俺が糞野郎な仕事振りだった。最低限やる約束のことだけやって、午後は黒い犬にがぶがぶかみつかれて半身飲み込まれた状態で帰宅。それでも、生きていかざるを、得ない。ヨブの信仰する宗教に属しているというわけではないが、そうであっても俺にも禁じられている行為はある。
_ うにゃ [この番組いつ放送してるんですか?]
_ けい [NHK BSプレミアムで土曜21:00から。]
_ うにゃ [そっか…1ちゃんねるに登場するの信じて待とうかな ]
_ うにゃ [渓谷。横浜にあんなすごいのあるんだ…すごくびっくり]