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2014-06-15 [長年日記]
_ そういうわけで午後の英会話の宿題をやっていた。内容は、社員のモーティベーションを上げるためのいくつかの提言をCEOにメールで送る、というものだが、そんなこと実際にはやることは無いだろうと思いつつも、まあ書いた。普段感じていることを文章にするだけだったので内容は高度なものではない。わかりやすいキャッチフレーズ(←こういう英語は少しおかしいように思う、といつもの師匠は言った。"motto"が良いのではないかと。余談だが師匠最近ミニスカなので俺は劣情を隠すのに結構必至だ。しかしターミネーターの"I'll be back"なんていうのもキャッチフレーズである、と英語版ウィキペディアには書いてある)にしたり、社長がテレビ出演してビジョンを語ったりするのは株主や顧客ばかりでなく社員にとっても有意義なのでは、とかそういう提言だ。まあ俺みたいなもんが言うようなことじゃないんだが。それでe-mailを書いて持ってったら今日はいつもの師匠じゃない女性講師で、なんとなく不愛想に見えたがたぶんこれは普通なのだ。比較で言うならいつもの師匠は比較的良く笑う人なのだろう。来週はよんどころない事情で休み。その次はスクールホリディでまた休み。
_ 世界を変える力なんか自分には無いのだという無力感は、有無を言わせない不幸の到来によって無理矢理に与えられてしまうこともある。なぜこのような不幸が自分に起きてしまうのか。そんな想いに駆られて怒りを覚えるとき、俺には思い出す一人の男の名前がある。その名をヨブという。彼は突然に財も家族も失いそれでもなお信仰を失わなかったのだが、我が身にも病苦が訪れる。この物語は、身に降ってわいた不幸を忍ばねばならない多くの人に慰めを与えたことだろうと思うが、聖書の中にあっては異色であって、ヨブ記においてもヨブの疑問に対しては同じ立場での回答は与えられるわけではないようだ。それでユングの「ヨブへの答え」を再び手に取ろうとしたのだが、例によって我が家のビッグデータの中に紛れ込んでしまっている。英会話の帰り道に立ち寄った本屋で、内村鑑三の「ヨブ記講演」という書が岩波文庫から5月の新刊として出ていることを見出したのだった。わが内村鑑三がこのようにヨブ記を問題として取り上げていることにちょっと感動を覚えて、珍しく本屋で買った。冒頭に、これが教訓集の最初に、しかもヨブと言うユダヤ人にとっては異邦人の物語として置かれているその位置づけを問題にしており、ヨブの問題を「個人的であるがゆえに普遍的」と言っている。この書が俺に何かの回答を与えてくれるかどうかはわからないが、一つ思ったことは、理不尽と思うことであってもそれはノンゼロの確率で自分に起こりうることであるともしも正しく理解していたなら、その出来事は理不尽なことでないと思うことができたかどうか、である。あらかじめ準備されていた出来事が起きるなら、覚える怒りは少ないかもしれない。そういう状態は望ましいだろうか?ジョジョの奇妙な冒険でプッチ神父は、未来に何が起こるかを誰もが知っていてこれから起こりうることに対して「覚悟ができている」状態こそが天国に至る道と考えた。降ってわいた不幸などない世界。だがあらかじめ不幸な状態に陥ることを知っていて逃れようがないと思ったら、ヒトはなにをするだろう?逃れようのない不幸を、たとえば自らの信念や信仰のためされる機会であるととらえてそれを歓ぶように考え方を変えてしまうというのは一つの方法だろう。これを宗教的マゾヒズムと呼ぶのが物議を醸すのなら、信念的マゾヒズムと言い換えても良い。如何に崇高な考え方がバックボーンにあったとて、マゾヒズムと言う変態であることに違いは無い。このような病理が英雄的な行為につながる可能性もある。そこで改めて、チャーチルが何を成し遂げて何をも成し遂げられなかったと絶望したことを思ってみたい。今日も支離滅裂。