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2015-12-05 [長年日記]
_ 英会話。今回は水木さんとゲゲゲの鬼太郎。テリー先生に鬼太郎の秘密を教えてあげた。
_ [音楽]「シングル・マン」RCサクセション
帰宅して少し聞いてみる。「甲州街道はもう秋なのさ」はずっと聞きたいと思っていた曲。たぶん、高校くらいのときに深夜放送で聞いて以来35年ぶりくらいに聞いた。多感な頃の深夜に音質の悪いAM波で聞いた印象は今クリアなCDで聞くよりももの凄まじかった。忌野清志郎さんの独特な声で「嘘ばっかり、嘘ばっかり…」と繰り返されてすっかり参っていた。それから「やさしさ」なんか聞いてみると、今現在トモフスキーにすっかり参っている俺が先に清志郎さんをたくさん聞く機会があったら、先にこちらに参っていただろうな、と思う。これは一種の機会損失のなせることで、35年前の俺は音楽を聴くための潤沢なリソースを持っておらず、今の俺は逆にどちらかというと生活の中の常識的順位を逆転させてそのようなことに多くの機会を与えている。そこで、清志郎さんよりもトモフスキーに共感を覚えているというわけなのだ。だがこれから、再逆転が起こるかもしれない。地球の磁極のように。さらにどんどん時間を遡ることだろう。過去から実際に遠ざかれば遠ざかるほど、逆に俺たちは過去の知見を得るのである。どうやらその理由がわかってきた。未来は現在からいくらでも生じるが、過去はもはや新たに生じることはないからだ。つまり、一度過去のある時点に興味を抱いてしまったなら、その「狙われた」一時点はそれ以降永遠に調べられ続けることになりえるのである。歴史全体の長さが増大するにつれ、ある時点ともうひとつのある時点に対する知見の量の差は相対的に小さくなるではあろうが、原理的にはその「時点」が過去であればあるほど、その時点を研究する機会は多いのである。逆にその「時点」が過去であればあるほどその時点の記憶の残滓は消失していってしまい、調査が困難になることは十分認識されているが、調査の機会が増える一方でありえることはあまり人々の口には上らない。このことは考えてみると不思議で仕方がない。加えて、時がたつにつれて主に科学技術、それから認識論や解釈に革新が生じたりすることで、同じ”情報源”からより多くの”情報”を抽出することができるようになっていく。これらの3つほどの効果を差し引きすると、結局過去に関する知見はどう考えても未来へ行くほどに増大する一方なのだ。もちろん、過去への興味を捨てたり、過去の遺物を一切保存しないのでない限りにおいて。「捨てる技術」がこの未来への賭けを台無しにする愚行であることはかくして明らかなのである。