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2017-09-21 [長年日記]
_ [古新聞を読んで] 日経、9/20, 夕刊。
木皿泉、という脚本家がプロムナード、というコラムに「初めての経験」というタイトルで義父の想い出、自分の想い出、そして1日だけ生きて亡くなった姉のことを書いていた。私の人となりを知る人であればこの記事は仄かなエロさにまつわるものと見えるかもしれないが、今日この記事を読んだ私はいつになく殊勝だ。初めての経験とは、ここでは主に幼い頃に感動を持って味わった何かの味覚である。それが筆者にとっては厚ぼったいガラスの飲み口から味わったコーヒー牛乳だったり、餃子の一口であったり、イチゴのショートケーキだったりするし、義父にとっては幼い頃味わったであろう豚足の味であったりする。その後もっと上等なものを味わったはずなのに、これら「初めての経験」の方が鮮烈に残るのだ。そこで筆者は考える。だから、生まれて1日だけしか生きられなかった姉も、彼らの鮮烈な体験に劣らない幸福な体験をしたに違いない、と。
センチメンタルな幻想と思うだろうか。私には、確かな経験に裏付けられた、正しい推論の結果であると思える。これに加えて、様々な臨死体験から言われるように、臨終の際に人は幸福感に満たされるということが本当であるなら、人生はいつ終わっても幸福なひと時を必ず持っており、しかもその最後はいつも幸福である、ということになる。次に考えるべきことは、にも関わらず人生が不幸で満ち溢れているという原初の仏教的の考え方もまた正しいとするならば、両者の関係はどうなっているのか、という疑問なのである。
ただ、目下それ以上に疑問なのは、木皿泉が夫婦の共同のペンネームであるということだ。記事の内容は同時にこの二人に起こることではない。この記事の結論はどちらによりもたらされたのだろう?あるいはどちらかの体験をのちに共有して、そして二人で導いた結論なのか。この脚本家に興味が湧いてきたところ。