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2014-09-14 [長年日記]
_ [特撮] 烈車戦隊トッキュウジャー
トカッチの皮肉が何言ってるかわかんなかったのだが、「光って野菜嫌いなのに、4号はグリーンだよネー」って言ってたようだ。日本語のヒアリングも拙くなったのか、俺は。
_ ヴィトゲンシュタイン。
英会話クラスで使うテキストが変わった。冒頭いきなり、ヴィトゲンシュタインのQuoteで始まった:
”Everything that can be said can be said clearly.”
何事にせよ、口に出せるものはすべからく明瞭に述べることができる。
「なれ知れるやヴィトゲンシュタイン」と師匠は問うた。「我その名のみ知れり。されど彼何物たるやを識らず」と俺は答えた。「さらばなれ、何に依りて彼の名知る」
「学生の頃、倫理学にてその名知る」と答えたが、どうも違う。あとで思い出したら、山田正紀の「神狩り」の冒頭に、以下のQuoteがあったことで覚えていたのだ。「語りえないことには沈黙するしかない」
Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen.
Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.
どうやらこのQuoteが、先のQuoteに続く言葉であるようだ。「すべからく語られることは明瞭に語ることができる。語ることのできないことには沈黙せねばならない」『論理哲学論考』という著書の中にある言葉であるらしい。どのようなニュアンスで書かれているのかはその著書に触れなくてはわからないかもしれない。英会話のテキストにおいてはこのquoteは良いコミュニケーションとはを論ずる際のイントロとして用いられていた。
そういう訳で、読む時間なんかたぶん無いと思うのに、ポチってしまった俺。
_ 李香蘭・山口淑子さんがお亡くなりになった。94歳。村上もとかの「龍」の田鶴ていの一部はこの人がモデルと思われた(ほかに田中絹代なども)。
_ 風邪からは回復しつつあるようだが、咽喉がダメ。たかが咽喉の痛いくらいでそれなりにダメージがあるなんて、風邪って不思議だといつも思う。子供の頃は風邪なんて病気のうちに入らないと思ってたくらい苦にはならなかったのに。そんなわけだからヨガにも出かけないで大人しくしてる。たまった洗濯物が着々と片付いていくのが何とも好ましい。さすが洗濯機、三種の神器と言われるだけのことはある。あとは何だっけ。→答え:テレビと冷蔵庫。
_ 洗濯してるうちに黒田官兵衛が始まったので見ながら食事しようとしたが、どうも話が飛んでる。先週の話見てなかったようだ。2話続けて視聴。黒田長政が城井谷の一族を滅ぼす。
_ しばしのち。NHKスペシャル。立花隆の臨死体験の”思索ドキュメント”。ある脳科学者は自らの臨死体験を7日間の脳機能の停止状態の中で体験したことで、それゆえに脳と魂は独立に存在すると考えている。だが、それはやはり証明のできないことだ。なぜなら、彼の言う”体験”が、はたしてその7日間のどこかでの体験だったのか、あるいはその脳機能の停止状態の直前あるいは直後のことだったのか、誰にも証明ができないためだ。一瞬の間に人生全体に及ぶと思われるような脳内の体験をすることはあると聞くし、夢を見ている最中には実時間とは異なる時間軸の中で体験が生じることは良くわかることだ。ただ、そうであっても大きな謎が残る。なぜ、臨死体験者の多くは、その”体験”の中で共通の体験をするのだろう。すなわち、体外離脱と、祖先や崇高な存在と出会う神秘体験である。そのような体験が生じるメカニズムは説明できるかもしれない。後者は臨死ではなくとも極限状況における多くの体験談を探すことができるだろう。前者もそれなりの科学的な説明がなされつつあるように見える。問題は、何故それが”同じ”体験なのかなのだ。そこにやはり”集合的無意識”の理由を説明することと同様の困難を感じるのである。番組後半、これらの臨死体験がどうやら脳の高度な機能による”ニセの記憶”によるものではないかという結論に至ろうとしている。何か性急でで安直な結論に至ろうとしているように感じられる。それに、このような結論を認めたにせよ、やはり、ではなぜ”共通の”ニセの体験を生むのか、という疑問は残るのである。この疑問は、心が存在するのかどうか、それは脳の機能とは独立なのかどうか、と言った問題とは独立に扱うことができそうだ。
番組後半、心とは何か、に関する科学的な議論について。今その心の一部(と番組では言っていた)である”意識”に関する議論が盛んである。意識を司る神経細胞が見つからない。この分野に革命を起こしたというのがウィスコンシン大学のトノーニ教授。人の意識は複雑に絡み合った蜘蛛の巣のようなもの、しかし数学で説明できるものと考えた。彼は覚醒時と睡眠時での神経細胞のつながり方の違いを調べた。眠っているときは活性化されている領域が局所的であり、覚醒時にそれが広がっていることから、意識は膨大な神経細胞のネットワークで生まれるとした。これを統合情報理論と呼ぶらしい。これはしかし、改めて思うに脳の機能の説明をしているのだ。だが、このようにして意識を説明すると、意識の量を定量化することができる。これはそのようなネットワークにどれほどの情報量が付与できるかと言うことに過ぎず、相変わらず、我々が感じる心というものの謎の本質からはかなり遠い、基本的な観測可能な現象を説明しているに過ぎない。この問題にアプローチするためには、ヴィトゲンシュタインのquoteを捨てなくてはならない。そのような分野を開こうとする者は、語りえないことについても沈黙してはならないのである。物理学者の立場から生命現象に言及して分子生物学誕生のきっかけを作ったシュレディンガーのように。
さて、神秘体験と関連の深い部位がある。辺縁系と呼ばれる進化の初期段階で生まれた古い組織、夢見るときに活性化される部位である。辺縁系が活性化されると大量に脳内物質が分泌され、それゆえに神秘体験は多幸感を伴う。これは生物的進化の歴史の中で獲得されたこと。それを調べているネルソン教授は「なぜには答えられない。どのようにだけが調べられる」という極めて慎み深い態度を守っている。が、この人はそのことについて何か考えを持っているようにも思われる。そしてこの部分の成り立ちは、集合的無意識が存在する(と俺は思っているのだが)ことの理由に関係がありそうだ。
人は必ず死ぬ。死の恐怖は人を生きているときから脅かす一つの病のようなものだ。人はそこにいろいろな仕方で答えを与える。考えないという答え、死は我々と関係ないという考え(現在の俺はこの考えを支持している)、死後裁きにあうという考え、死と再生は繰り返されるという考え、それが永劫に続くのが苦であるから生死の問題を越えてその繰り返しから逃れるべきであるとする考え。死んだら全ておしまいだという考え方には救いが無い、だろうか?俺にはそうは思えない。そのような静寂な状態は好ましくさえ見えるほどに、世界は喧騒に満ちていてまた醜い。奇しくも立花氏は番組最後に、俺の尊敬するエピクロスの「アタラクシア」(←変換間違うと”阿多楽しあ”になって、それは確かに快楽に満ちた状態かなあと思う)に言及した。それならばきっと、死に対する考えもまたエピクロスの考えに沿うものであるのだろうな、と感じた。番組終わり。