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けいりう堂日記

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2014-09-01 [長年日記]

_ [音楽] ジューン・テイバー”Quercus”

タイトルのQuercusはオークの木のことらしい。2006年のライブ音源、ということなのだが、このCDを宅配で受け取るために今日は早く帰ってきた。いつ聞いてもジューンの声は深く、深い。


_ 洗濯機がまたエラーを発生させているので洗濯が捗らなくなった。まだ5年保証の範囲内なので修理をお願いする。また、若干の片づけなどせねばならない。土曜に来るのでそれまで(洗濯するとすればだが)またコインランドリー使うことになる。


_ 近ごろどういうわけかヴェルコールの「海の沈黙」が読みたくなっている。これが俺の魔窟の中のビッグデータからマイニング(ほんとに掘り起こすのだ!)される可能性は低いのだが、関連の情報を2つ。その1:ヴェルコールは第二次大戦下ドイツに占領されたフランスで深夜叢書を刊行した。「海の沈黙」はその中ではおそらくもっとも有名な作品なのだが、他にも著作がある。その一つに「人獣裁判」という目を引くタイトルのものがあった。図書館で借りることができるので入手しやすい館に回送中。その2:その「海の沈黙」は、占領下のフランスでフランス文学を愛するドイツ人の若い将校と、その下宿する家の老人と娘の、決して温かい交流には至ることのない物語である。この話は大学時代にフランス語の教材となったので、フランス語で通して読んだ。その後岩波文庫でも入手して読んだ。この作品が映画化されていたのは全く知らなかった。アマゾンで見る限り、2度映画化されているようだ。当然見たい。時間がいくらあっても…


_ [音楽] マイク・レメディオス

ブルース・リーの映画の主題歌歌ってたスペイン系の中国人、ということである。なんと言っても「ドラゴンへの道」の主題歌が盛り上がる。”Where there's darkness, there will be bright light.”ここで怪鳥音がタイミング良く”アチャー、ホーッ!”と入るところが大好きだ。カラオケ行ったら絶対歌うでござる。


_ とても古いことを思い出した。小学校に入って間もない頃。近所には数人の同級生がいて、その中に妙におしゃまな女の子がいた。ほっぺたには猫のひっかき傷のような傷跡。活発な女の子だったと思うが、低学年の同級生は誰もそんなものは読まないだろう高村光太郎のレモン哀歌のことなど作文に書いていた。
 どういうわけかその子を中心に、同級生たちは寸劇をすることになった。2度ほどそんな機会があったように記憶している。誰に見せたのか。学校の劇の練習が始まりだったのだろうか。ともかく俺の覚えているのは、浦島太郎の話が脚色されて、太郎は天然痘に罹患してしまってあばた顔になってしまったという、脚本の一部だった。それが不評だったのか、劇の練習は頓挫したように思われた。もしかすると俺だけが嫌気がさして抜けてしまったのかもしれない。今唐突に思い出したその脚本は一体誰が作ったのだろうか。確か、おそらくは彼女の文学趣味の母親であったように思うのだが、もしかすると彼女本人の作だったのかもしれない、とも今思うのである。


2014-09-02 [長年日記]

_ 投稿する意見や活動内容は私個人の見解に基づくものであり、所属企業・部門見解を代表するものではありません。(免責文)

↑別にそういう趣旨のホームページでも日記でもないんだが、今日会社でSNSを使うときの注意に関する教育を受けたので、念のために書いといた。最近特に、書いてる俺がすぐそばにいるのに一向に気にせずに会社で読んでる者がいたりして、万一記事を曲解されたりツッコミに危険なこと書かれたりしたらもうこのページたたまなくちゃならない。個人として日々の愚痴をこぼしてたりするのが逆に個人攻撃のように受け取られたりするリスクもある。同僚にHPがばれてるというのはそういう意味でかなり弱点をさらしてるということになるのではある。だがこの動きも止めようとして止められるものではない。なぜなら何もしていないくせにちょっとした知識を人に与えることで自分を役に立つ人間であると見せかける類のただ乗り行為にはそれ自体止める誘因が無いのだし、他人がどんなふうに苦しんでいるかとかどれほど愚かであるかを知って楽しむという習性がヒトには備わっているからなのだ。かくして、この日記が誰の手になるものかは次第に広まっていってしまわざるを得ないことだ。昨今のこと、その広がりがどう飛び火するかわからぬから免責文書いといた。断っておくが俺は会社のPCから更新したりはしない。でもたまに「あの時何やったっけ?」的に検索掛けたりはしてしまうのである。


_ [新聞を読んで] VR、AR、そしてVS。

今日はもう少し書いとくことがある。日経を読んでたら、慶応の舘先生ほかが、立ち位置に依らない三次元裸眼ディスプレイを開発したとあった。パシフィコ横浜のゲーム関連のコンファレンスで展示されるらしい。三次元立体視の原理自体は、グラスレス3Dテレビと同じらしく、右目と左目に視差のある画像を透明液晶ディスプレイとフレネル(←変換間違うと『触れ寝る』になる。色っペー!)レンズを組み合わせて左右眼に別々に届かせる。だがこのままだと立体視するためには立ち位置の制限が大きい。そこでこの人たちは、見てる人の視点を赤外線センサーで拾うモーションキャプチャーを組み合わせ、視線の方向に合わせて、目に送る画像を瞬時に計算して適時送るのである。そういうわけで、実用化されたらまず女性の映像を下から見上げたりするのに使われることであろう。この場合女性がどのような服装であるかとかあるいは何も着ていないのかなどにかかわらずその需要はあるに違いない。人は知らないが俺にとっては少なくともそうだ。つまり、見上げることに意味がある。さらにこの先生たちは、立体的に見たものに応じて、それを触っているかのような触覚のディスプレイというものも開発しているのである。さてそれに加えて優れたストーリーと触感の良い素材が開発された暁には、このテクノロジーはどうあってもエッチなアプリケーションを捗らせるより他無い。一度そう思ってしまったらもうその勢いが止まるはずはない。かくして、「狂四朗2030」のような未来はもうそこまで来ていると同僚に言うと、彼はそれよりこっちだと言って「スプツニ子」とやらの「生理マシーン」と「チンボット」を示したのである。ちょっと見ただけだがこちらはどちらかと言うとフェミニズムの立場からの問いかけではないかと思う。さていずれにせよ俺の思いは、代々木忠がAV制作活動に現在も旺盛に活躍していた・いくならば、これらの素材を利用して、過去の名作をはるかにしのぐ「10倍どころか256倍感じるバーチャル逆転SEX」のような画期的な作品を作ることができたであろう、ということなのである。「2045年問題」と呼ばれ始めた技術的特異点は目の前だが、その前に、人類にはVSの時代が訪れる。決して感染症のリスクの無い実質的な快楽主体の性行為のシミュレーションの時代である。同時に再生医療と少子化問題とその他いろいろと生命をハックする技術が捗っているはずなのだ。夢か悪夢…しかしその行き着くところを見るまで死ぬわけにはいかぬのだ。


2014-09-03 [長年日記]

_ [漫画] 水木しげる漫画大全集(第一回配本完)

早い帰り。途中本屋で水木しげる漫画全集2冊を買って帰る。これで第一回配本は終了だ。第二回配本は紀伊国屋のネットショップで購入することにしたのである。これでも全巻購入特典は入手できることになっているし、店舗型書店で全巻購入しても入荷の知らせなど特に来ず、むしろ要領を得ない店員が、すでに届いている本を探すのに手間取っているのを見てイライラするのだから店舗型書店で全巻購入するメリットはほぼ無いのである。今後の書店の在り方は大いに改革されるべき問題である。ところで今回の2冊の一方は「縄文少年ヨギ」。もうだいぶ昔になってしまうが、講談社から高室弓生という人の描いた「縄文物語」というなかなかユニークな漫画が出ていたが、それが1990年。「ヨギ」は1976年で、やはりかなり先駆的なのである。解説は唐沢なをき。もう一冊は貸本漫画集で、時代劇集と見える。こちらの解説は佐野史郎。例によって寝る前にちょっとずつ読む。


_ [漫画]「好漢・うぶんつ侍 宇文津之介」桝田道也。

仕事の関係でちょっとUbuntuに関心が出つつあるのだが、Ubuntuと言えば「Ubuntu Magazine」であり、「Ubuntu Magazine」と言えば桝田道也なのである、俺的には。現時点で第10巻までの記事が公開されてる。これは全然知らなかった。たださあ、第10巻のアップルのネタが全然わからないんだよね。フルカラーがモノクロにされるってどういうことなの?あ、わかっちゃった。iMacのボディカラーの変遷のことだ。そうかー。


2014-09-04 [長年日記]

_ [コンピュータ] tritonn。

インストールは終了した模様。いよいよsennnaなどのテストをはじめる。

_ 寝る前にもう一丁。仕事で曲面の作り方考えてるうちに頭がもうろうとして来て、「曲面をどう式で表現するか…断面1と断面2と断面3の境界を通るような関数…でも断面をつないでいく方法はユニークじゃないなあ。自由度が多いよなあ。表現の自由度…」と頭の中でとうとつに”表現の自由度”という言葉が浮かんで、「なんだそりゃ!」と自分に突っ込んでしまったのだった。「表現の自由」と「自由度」という言葉がフュージョンしてしまったのだ。そんだけ。我々には等しく表現の自由度がある←間違ってる。


2014-09-05 [長年日記]

_ 日付かわっちったい。senna使おうとしてデータベースをあらたに登録するあたりで「アクセス権が無い、あくせすでないど!」って汚い言葉でCentOSが俺をののしるのだ。もう一歩なのだが…

_ 仕事がらみでBNとかMCMCとかCBIRとかなんかそういうこと調べ始めたら止まらん止まらん。そういうことばっかりやっていたいよ。くそたわけたなんちゃってお遊びマネジメントモドキなんか一切価値を感じないし上手くできるとも思ってないの。人にやってもらったことを自分の価値だとか思いこむような奴になりたくないの。俺は興味のある現象には直接コミットしたいだけなの。人と関わりたくないの。友達欲しくないの。ホントだよ。実際いないけど。隠れて生きよと私淑するエピキュロス師はおっしゃったそうだ。死を恐れることはナンセンスであるともおっしゃったそうだ。いいこと言う。I want to vanish.エルビス・コステロがジューン・テイバーに書いた曲だ。

I want to vanish

This is my fondest wish

To go where I cannot be captured

Laid on a decorated dish

Even in splendor this curious fate

Is more than I care to surrender

Now it's too late


2014-09-06 [長年日記]

_ 帰宅すると案の定レコーダーのハードディスク容量が無くてタモリ倶楽部前半録画できず。エビ中のあいあいがたまらん。

市川由衣もいいが。←めっちゃまちがった。市川紗椰!


_ なんとなく最近スクールウォーズの動画見たりしてしまうのは、仮面ライダー鎧武に出てくるバロンが松村雄基みたいに見えるからなのだ。「お前ら悔しくないのか!」「悔しいです!」ここはいいのだ。でも、ろくに努力もしないくせにただ悔しがってる奴もいたりするから世の中にはうんざりしてしまうのだ。悔しがる裏にはそれなりの自助努力ってもんがあるはずなのに、あんた何にも自分から動かないでただ悔しいとかほざいてるだけじゃないか。お前こそゼロだよ。ゼロな人間だよ。世界はもっと美しいはずだろ。俺をアニマルワールドに引きずり込もうとするんじゃないよ。うんざりだ、もうほんと。お前は地道に努力してる者たちを侮辱している。そして、人類が積み重ねてきた技術と言うものへの敬意を払いもしていない。そういうところに怒りを感じて頭頂が禿げ上がるんだ。やはり若いうちにハゲ保険に入っておくべきだった。


_ そうは言っても俺にも見直すべきところはある。ハゲ保険なんて本当にあるんだろうか?
 今日は洗濯機の修理が来る予定だったのだが、部品在庫が無く一週間後に。この一週間はコインランドリー通いとなるのがちょっと面倒だが、実は家が片付いていないという負い目もあって悲喜こもごも、いやここはむしろ悲喜相半ばするというべきだろうか。そんな言葉あったか?愛憎相半ば、苦楽相半ば、功罪相半ば、毀誉相半ば。。。まあでも人間として最低限の片づけはしておこう。さ、英語の宿題をしようか。


_ 週末になってまた"自律神経の焦げる匂いが"し始めた。この匂いはいつまでも鼻の中に残って消えない粗悪な消臭剤か香水のような匂いだ。一概に悪臭とは言えないが、どこに行っても消えるものではない。呼吸を止めても匂いが消えないのだ。だが、まだましと言えるかもしれない。生ゴミや糞尿の匂いではないという幸運を喜ぶべきなのかもしれない。まあ、でも、キツイ。


_ 明日も英会話だった。忘れてた。まだキャンセル分が消化できない。でもこちらにも都合があるから。


_ 花子とアンが太平洋戦争開始の時代に入った。戦時下のドラマを見ていて感じることは、俺はそのような時代にあっては非国民とも国賊とも呼ばれるようになるのではないかという恐れだ。俺は自らが正しいと思ったことに信念を持てるタイプではない。そういうことがこの頃になってわかってきたのだ。それぞれの正義があることはマイケル・サンデルの本なんか読まなくても理解できることで、しかしまたでは何でも許容できるかというとそうではないし、和を乱すことも好ましいことではないが、そういう批判されやすいところだけ周囲に迎合して陰でこそこそとチートに励むことはもっとも憎むべきことだが、圧倒的に能力がない人間はチートとフリーライドで凌ぐしかない。それも家族を守るため、人生は綺麗ごとではないというのならそれを避けようとする俺は夢想家であるし、家庭を、子を持たぬがゆえに国を滅ぼす原因と言えば言えるかもしれない。ただ、そうではあっても人の世の中に人の皮をかぶる豚の子たちが紛れ込んで内側から人間の世界を蝕むよりはましだなどと考えてしまう。病的な考え方をしてしまったり。そのうち面倒になってしまって破滅的な生き方を志向してしまったり。天涯孤独ならそれでもかまわない。だがこんな俺にあっても、思うが儘にふるまうことのできないしがらみは存在する。それを仏教では煩悩と呼んでいるのだと思う。家族愛も、隣人愛も、こと自分に近しいものであるがゆえに愛するということはすべからく煩悩だ。敵であるがゆえに愛するということもそれが己にとって特別な行為であるのならばやはり煩悩だ。我ひとり高みを目指そうという行為も煩悩。多くの読書をすることも煩悩。誰かのためになることをしようと努力することも、それが自らに快楽を呼び起こすために繰り返されるならばたちまち煩悩と化する。瞑想から何か有用なものを得ようとすることさえ煩悩だ。この数多くの煩悩たちが俺をかろうじて破滅させることから救っているともいえる。それが人生の皮肉的側面である。つまり、生を全うしようとすればその人生は皮肉的人生とならざるを得ない。最終的には、そういう人生に意味があるかどうか、もし無いならばあとから意味を付与すれば良いのか、そういう自問に対して明確に答えを言わなくてはならない時が来るのかもしれない。この問題は永遠に棚上げされるべきだ。俺は中学の時に弁論大会で、「われわれはなぜ生きるか」という弁論を行ったことがあり、今思い出すと「あの時!」というような恥ずかしい行為の一つなのだが、「グレート・ハンティング」というキワモノドキュメンタリー映画(当時はマジにとらえていたのだが)で、サファリパークで人間がライオンに食われてただの肉塊になるさまを見て(今ネットで調べるとどうもそれはやらせ映像だったようだが、どうやらせなのかよくわからない)、人間なんてとか言い始めたことをみんなの前で披露したのだ。思えば中二病も極まった。しかし田舎の教師たちも生徒たちも内容には感心していたようであったから、当時俺を取り巻く者たちは皆一様に中二病患者であったのだろう。その弁論の結論は、結局のところわからないから人生に意味を見出す行為こそが人生の目的だなどという煙の巻き方をしてしめくくったら、原稿の一部を端折ってしまったのか、リハーサルの時に立ち会った先生も俺自身も、話せる時間のことを全く失念していたのか、とてつもなく短い時間で終わってしまって優勝を逃したのである。言いたいことを言い切ったから俺は満足だったしスピーチは短いほどいいということも知っていたのかもしれないが、俺の思いがあのころから少しも進歩していないことは恥ずかしさを通り越してむしろ誇らしい。あの頃のお前たちに、そしてあの頃の俺に教えてやりたい。俺は中二病をこじらせたまま老境に入っていくのだ、と。そういう人生はありうるのだから、中二病の時には安静にしていて将来に恨みを残すようなことはせずに隠れて生きよ、と。だらだら思いつくことを書くのは楽でいいな。いつまでも駄文を読んでないでそれぞれの仕事を始めた方がいいぞ。


_ [漫画] 「聖☆おにいさん」第6巻、中村光、講談社。

イエスの描いた漫画「さんだるふぉんとめたとろん」面白い。やっぱり、というべきなんだろうが、この漫画家・中村光のことを「信仰を踏みにじる者」とか呼んで糾弾しようとする者がいる。俺が信仰を持つ者に対して一抹の不信をぬぐえないのは、彼らが自らの寄って立つ信仰以外のものの正しさを認めようとしない傾向を持つ点にある。これは世界が多様で複雑であるという事実と明らかに矛盾しており、多様性を認めないことがどのような理由よりも激烈で悲惨となる宗教戦争のエンジンとなってしまうが故である。一体、命の無い真空のような残酷な世界に生きるよすがを与える宗教というものが、同時にまた闘争のもとになってしまうのは何故なのか。人を苦しみから解放しようとした開祖の意図はどこへ消し飛んでしまい、かえって人を苦しみに突き落としてしまうのか。だが、そのような信仰の在り方はもはや古いのかもしれない。とりあえずイエスとブッダが睦まじく立川の風呂無しアパートで生活するこの漫画はそんな宗教的対立より一段高い視点にある。なぜ漫画にそれが可能なのか。それは、いずれ狂信に至る真摯すぎる信仰にはユーモアやギャグが無く、漫画にはそれがあるから、というだけのことに過ぎない。開祖が教えを広めるのに用いた数々のたとえ話は、明らかにこのユーモアとギャグを通じた相互理解の源流と言えるのである。


2014-09-07 [長年日記]

_ 昨日そんなに遅く寝たというわけでもないのだが、朝の目覚めが良くなかった。また黒犬が現れようとしているのかもしれない。ただ雨のせいなのかもしれないが。枕もとで「縄文少年ヨギ」読む。それと、もう一冊…

_ [読書] 「すわっぷあそび」(読了)

のんきなエロ小説だと思ってたのが、最後は米人夫妻とのスワッププレイの後薬を盛られて乱交パーティの供物にされて、夫婦ともにボロボロ。でもその余韻で夫婦のセックスはその後さらに捗るようになったという…。
 実は中学校の時にませた友達と付き合っていて、その彼の家に遊びに行ったときに親の読んでいたエッチな雑誌を見せてもらった。そのなかに、女の生首のようなアダルトグッズを使うシーンが出てきて、動かしたときの擬音を宇能鴻一郎先生は「ドルン ドルン ドルルルルン」と表現していたのがどうしても忘れられなくてもう一度読みたいのだ。そのタイトルがたしか「すわっぷごっこ」だったと記憶しているということを以前書いたが、そういう記述はこの「すわっぷあそび」の中にはなかったので、次は「すわっぷ団地」を読まなくてはならないのである。


_ [特撮] 烈車戦隊トッキュウジャー

窓辺に立つぞう事件が再発。まあわたしは知らないんだが。ニコニコ動画にアップされてた。会員IDないと見れないと思うが、コサキンの勢いありすぎるわ。トッキュウジャーの今回ストーリー自体はなかなか良かった。闇の皇帝がさらに凶悪になる予感。


_ 今日も英会話。そのあとジムでヨガ1.5hのあと筋トレ4種+10分走る。一度家に戻ってすぐにたまった洗濯物を背負ってコインランドリーへ。結構量があるので帰りはバスを使おうとしたら、今日は日曜なので最終が早い。生乾きのまま持ち帰る。最近特に思うのだが、プライベートを満喫して楽しんでいる分、仕事の苦痛とのギャップがかなり大きい。この二極化が進行するのは問題かもしれない。じゃあプライベートもそこそこにつまんない方がいいということなのだろうか。そう思うととても人生を楽しむために生まれたなどとは信じられない。明日もそういう日になる。明後日も…。うんざりだ。


2014-09-08 [長年日記]

_ これだ!

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まだまだ暑い日もある。今日は雨で蒸し暑い。このごろになって爽から梨味のが出た。やや甘めだがこれだ。しばらくこれで行く。ファミマのPBのラフランスシャーベットも良いがこっちのほうがチープで(値段も味も)俺好みだ。これで行く。


2014-09-09 [長年日記]

_ 世界は美しく、人の命は甘美である。ブッダはそう言ったらしい。俺はどうすればそのことを、この人の世で信じられるのか?人無き世なら、この世は美しく見えるかもしれない。それはそうかもしれない。後半はよくわからない。


2014-09-10 [長年日記]

_ こうやって、一介の会社員であるということと、プライベートではノンポリな趣味人であるということ。そのことはライフバランスどころかどんどん二極化していくように見えている。自然現象と異なり、どういうわけか均質化していくのでも一つに凝集していくのでもなく、二極化なのである。そしてどんどん人嫌いの度合いが増していく。もともと俺は妖怪とか怪獣とかが好きなわけで、それって人である我が身の有様に対する反発ではないかと思われる。理屈で割り切れない愚かな行為が止められなかったり、泣くべきでないところで泣いてしまったり、子供時代はそんな自分であることがどうしようも無くつらかったように思う。確たる理由は無かったかもしれないが、何かコンプレックスの塊だった。偉人伝を読むのが好きだったのも、そこに人としての理想を見ていたからかもしれず、いつか自然に自分はそんな偉人になっていくのと言うことを信じていたようにも思う。唯我論を否定することがかなり成長するまでできなかった。実際のところ、論理的に唯我論を否定することはできないのだから当然なのだが。なんか書いてるうちに疲れてきたのでとーとつに記述おしまい。つまんないオチなんていらねえよ。けっ。


2014-09-11 [長年日記]

_ 遅い帰り。翌日も早い。うう。実家は大雨。


2014-09-12 [長年日記]

_ 風邪引いた。熱出たので帰宅してアイス2個連続食い。浸みるわ。


_ 頭ボーっとしてる。寝床でだらーっとしてるより仕方ないが、さほどつらいということでもない。ゆっくり休む。ただ、明日の英会話の宿題が手付かずで危惧している。


2014-09-13 [長年日記]

_ 英会話⇒クリニック⇒帰宅して洗濯機の修理の立会い。洗濯物も大部溜まってる。風邪なのに結構動き回ったのキツイ。「芙蓉の人」見てると、彼らの辛さと風邪のダルさが重なる。


2014-09-14 [長年日記]

_ [特撮] 烈車戦隊トッキュウジャー

トカッチの皮肉が何言ってるかわかんなかったのだが、「光って野菜嫌いなのに、4号はグリーンだよネー」って言ってたようだ。日本語のヒアリングも拙くなったのか、俺は。

_ [特撮] 仮面ライダー鎧武

ザックと湊(←良い脚)死亡。いよいよ最終話に向かって紘汰と戒斗激突。紘太さん腹筋割れてる。


_ ヴィトゲンシュタイン。

英会話クラスで使うテキストが変わった。冒頭いきなり、ヴィトゲンシュタインのQuoteで始まった:
”Everything that can be said can be said clearly.”
 何事にせよ、口に出せるものはすべからく明瞭に述べることができる。
「なれ知れるやヴィトゲンシュタイン」と師匠は問うた。「我その名のみ知れり。されど彼何物たるやを識らず」と俺は答えた。「さらばなれ、何に依りて彼の名知る」
「学生の頃、倫理学にてその名知る」と答えたが、どうも違う。あとで思い出したら、山田正紀の「神狩り」の冒頭に、以下のQuoteがあったことで覚えていたのだ。「語りえないことには沈黙するしかない」
Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen.
Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.
 どうやらこのQuoteが、先のQuoteに続く言葉であるようだ。「すべからく語られることは明瞭に語ることができる。語ることのできないことには沈黙せねばならない」『論理哲学論考』という著書の中にある言葉であるらしい。どのようなニュアンスで書かれているのかはその著書に触れなくてはわからないかもしれない。英会話のテキストにおいてはこのquoteは良いコミュニケーションとはを論ずる際のイントロとして用いられていた。
 そういう訳で、読む時間なんかたぶん無いと思うのに、ポチってしまった俺。


_ 李香蘭・山口淑子さんがお亡くなりになった。94歳。村上もとかの「龍」の田鶴ていの一部はこの人がモデルと思われた(ほかに田中絹代なども)。


_ 風邪からは回復しつつあるようだが、咽喉がダメ。たかが咽喉の痛いくらいでそれなりにダメージがあるなんて、風邪って不思議だといつも思う。子供の頃は風邪なんて病気のうちに入らないと思ってたくらい苦にはならなかったのに。そんなわけだからヨガにも出かけないで大人しくしてる。たまった洗濯物が着々と片付いていくのが何とも好ましい。さすが洗濯機、三種の神器と言われるだけのことはある。あとは何だっけ。→答え:テレビと冷蔵庫。


_ 洗濯してるうちに黒田官兵衛が始まったので見ながら食事しようとしたが、どうも話が飛んでる。先週の話見てなかったようだ。2話続けて視聴。黒田長政が城井谷の一族を滅ぼす。


_ しばしのち。NHKスペシャル。立花隆の臨死体験の”思索ドキュメント”。ある脳科学者は自らの臨死体験を7日間の脳機能の停止状態の中で体験したことで、それゆえに脳と魂は独立に存在すると考えている。だが、それはやはり証明のできないことだ。なぜなら、彼の言う”体験”が、はたしてその7日間のどこかでの体験だったのか、あるいはその脳機能の停止状態の直前あるいは直後のことだったのか、誰にも証明ができないためだ。一瞬の間に人生全体に及ぶと思われるような脳内の体験をすることはあると聞くし、夢を見ている最中には実時間とは異なる時間軸の中で体験が生じることは良くわかることだ。ただ、そうであっても大きな謎が残る。なぜ、臨死体験者の多くは、その”体験”の中で共通の体験をするのだろう。すなわち、体外離脱と、祖先や崇高な存在と出会う神秘体験である。そのような体験が生じるメカニズムは説明できるかもしれない。後者は臨死ではなくとも極限状況における多くの体験談を探すことができるだろう。前者もそれなりの科学的な説明がなされつつあるように見える。問題は、何故それが”同じ”体験なのかなのだ。そこにやはり”集合的無意識”の理由を説明することと同様の困難を感じるのである。番組後半、これらの臨死体験がどうやら脳の高度な機能による”ニセの記憶”によるものではないかという結論に至ろうとしている。何か性急でで安直な結論に至ろうとしているように感じられる。それに、このような結論を認めたにせよ、やはり、ではなぜ”共通の”ニセの体験を生むのか、という疑問は残るのである。この疑問は、心が存在するのかどうか、それは脳の機能とは独立なのかどうか、と言った問題とは独立に扱うことができそうだ。
 番組後半、心とは何か、に関する科学的な議論について。今その心の一部(と番組では言っていた)である”意識”に関する議論が盛んである。意識を司る神経細胞が見つからない。この分野に革命を起こしたというのがウィスコンシン大学のトノーニ教授。人の意識は複雑に絡み合った蜘蛛の巣のようなもの、しかし数学で説明できるものと考えた。彼は覚醒時と睡眠時での神経細胞のつながり方の違いを調べた。眠っているときは活性化されている領域が局所的であり、覚醒時にそれが広がっていることから、意識は膨大な神経細胞のネットワークで生まれるとした。これを統合情報理論と呼ぶらしい。これはしかし、改めて思うに脳の機能の説明をしているのだ。だが、このようにして意識を説明すると、意識の量を定量化することができる。これはそのようなネットワークにどれほどの情報量が付与できるかと言うことに過ぎず、相変わらず、我々が感じる心というものの謎の本質からはかなり遠い、基本的な観測可能な現象を説明しているに過ぎない。この問題にアプローチするためには、ヴィトゲンシュタインのquoteを捨てなくてはならない。そのような分野を開こうとする者は、語りえないことについても沈黙してはならないのである。物理学者の立場から生命現象に言及して分子生物学誕生のきっかけを作ったシュレディンガーのように。
 さて、神秘体験と関連の深い部位がある。辺縁系と呼ばれる進化の初期段階で生まれた古い組織、夢見るときに活性化される部位である。辺縁系が活性化されると大量に脳内物質が分泌され、それゆえに神秘体験は多幸感を伴う。これは生物的進化の歴史の中で獲得されたこと。それを調べているネルソン教授は「なぜには答えられない。どのようにだけが調べられる」という極めて慎み深い態度を守っている。が、この人はそのことについて何か考えを持っているようにも思われる。そしてこの部分の成り立ちは、集合的無意識が存在する(と俺は思っているのだが)ことの理由に関係がありそうだ。
 人は必ず死ぬ。死の恐怖は人を生きているときから脅かす一つの病のようなものだ。人はそこにいろいろな仕方で答えを与える。考えないという答え、死は我々と関係ないという考え(現在の俺はこの考えを支持している)、死後裁きにあうという考え、死と再生は繰り返されるという考え、それが永劫に続くのが苦であるから生死の問題を越えてその繰り返しから逃れるべきであるとする考え。死んだら全ておしまいだという考え方には救いが無い、だろうか?俺にはそうは思えない。そのような静寂な状態は好ましくさえ見えるほどに、世界は喧騒に満ちていてまた醜い。奇しくも立花氏は番組最後に、俺の尊敬するエピクロスの「アタラクシア」(←変換間違うと”阿多楽しあ”になって、それは確かに快楽に満ちた状態かなあと思う)に言及した。それならばきっと、死に対する考えもまたエピクロスの考えに沿うものであるのだろうな、と感じた。番組終わり。


2014-09-15 [長年日記]

_ まだ風邪。あとでどこかでティッシュを買ってこないと。鼻水が出過ぎて体が干からびる。


_ [読書] 『自省録』マルクス・アウレリウス、岩波文庫。

放送大学の面接授業で「『自省録』を読む」というのを受講することが決まったので、少しは読んでおこうという腹だ。この人はAD121-180のローマ人であり、第16代皇帝。同時代人としては天文地理学者プトレマイオスが有名。リドリー・スコットの「グラディエーター」はこの頃が舞台だが俺は見てない。アウレリウスはローマ五賢帝の一人でストア派の哲学に詳しかったが、蛮族を攻める遠征が長期化して国が疲弊した。この皇帝に関する歴史資料はどうやらあまり多くないようなのだが、彼の残した内省的な書物である『自省録』は後世にとってストア派の考え方を知るための基本文献であり、この書物のせいなのだろうか、プラトンの理想とした哲人皇帝の具現とみなされている。
 俺はそのようなバックグラウンドを知ったうえでこの講義を取ることにしたわけではなく、マルクス・アウレリウスも皇帝ではなくひょっとしたら教皇の一人と勘違いしていたんではないかと思う。そのような立場の人間の自省なら、信仰の揺らぎのような問題を扱っているのではないかと期待したのではなかっただろうか。それは全くの誤りだが、それはそれで良く、このような立場の人間の内省には別の興味がある。昭和天皇実録が出版されたら入手したいと思うのと変わらない思いだ。才能がありながら悩む(才能があるゆえに悩む?)人間の伝記を読むことは大きな慰めになるゆえだ。
 さて、俺の入手した岩波文庫版は、精神科医・神谷美恵子の訳になるものである。1914年に生まれたこの人は、1949年主婦業の傍らにこの翻訳書を創元社から出版した。この書は神谷美恵子にとっては座右の書であった。ハンセン病を知る以前は文学を目指した神谷であるが、1935年頃、当時死に至る病であった結核に罹患、死ぬまでに古典文学を読んでおきたいと願いイタリア語でダンテ、ドイツ語でヒルティ、古典ギリシャ語で新約聖書を読み、「自省録」もギリシャ語で読んだとのこと。このような体験が人間に深みを与えることは想像に難くない。たぶんこの人が訳しているのだから読んでみよう、という興味も俺にはある。この人のことは実は良く知らないのだが、シンプルな装丁でみすず書房から出版された多くの著作は書店で見かけるにつけ何か崇高なものを思わせずにおれなかったのだ。内容でなく装丁や標題に引付られ、それ自身のみですでに文学であるような作品。それを俺は「標題文学」と呼ぶのである。まだ『自省録』は第1巻の部分を読んだだけで、思想的な部分にはまだ触れていない。もちろんこの記事も、読むきっかけやその動機に関わるミスクだけを書いた。『自省録』もまたそれ自体あまりまとまりのある文章ではないらしい。この記事、俺の考え以外の部分はすべて参考はウィキペディアであり、それに感謝。


_ どうもBDへのダビングに失敗する。VictorのBV-R130K50Wを愛用してたが、ロットによってはずいぶん失敗があるようだ。なので違うメーカーを試そうと思ったはずなのに、どうやらまたビクターを買ってしまったらしい。BV-R130U50W。こっちのが少し安い。買ってしまったんだから仕方なく使うが、移動でダビングするとせっかくの録画を失ってしまうことになりかねず、コピーでダビングして成功したことを確認してやっと元を消す。効率悪いのである。作業しながら鴎外の孫命名の番組見てた。明治の文豪は漱石にせよ鴎外にせよ漢籍の知識が十分にあった上でさらに英語だのドイツ語だのフランス語だのを、しかも今の俺から見れば若年のうちにしっかり身に着けているところが敵わないと思うのである。


_ [読書] 『論理哲学論考』ヴィトゲンシュタイン、野矢訳、岩波文庫、2003。

そうこうしてると本日2度目のヤマトさん訪問である。ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」が届いてしまった。読破する自信が無かったので中古を買ったが、若干角折れがあった程度で問題は無いようだ。パラパラ読む。底本は1933年の改訂版。公理大系のように書かれているのでスピノザの「エチカ」のように読みにくい(20年くらい前に挫折してる。今読んでも読みにくいかどうかは良くわからない)のではと危惧してたが、必ずしもそういうことばかり書かれているのではなさそうで、「太陽が明日も昇るだろうというのは一つの仮説にすぎない」とか、「世界の意義は世界の外に無ければならない」とか、「死は人生のできごとではない。ひとは死を体験しない」とか、ヴィトゲンシュタインの意図とは必ずしも一致しないとしても、納得できたり、納得できなくとも一考に値するquoteで満ち溢れている。そこが、「『危険』に満ちている」とされる所以なのかもしれない。訳者野矢茂樹さんの解説には「それにしても、『論考』という著作は妖しい光を放っている。読む者を射抜き、立ちすくませ、うっとりとさせる力を擁している。…うっとりしながら哲学することはできない」とある。青春時代にこれを読んでいたら少し人生観は変わったのだろうか。バートランド・ラッセルによる解説付き。無理して買った価値はあったようだ。読破できないかもしれないけど。

追記。「論じえないものについては人は沈黙せねばならない」はこの書の最後を締めくくる言葉である。が、quoteの対となる「およそ語られうることは明晰に語られうる」がどこにあるのかはパラパラ読んだだけでは見出せなかった。少なくとも二つの言葉は隣接して置かれているものではない、本書においては。

追追記。二つの言葉は「序」において並んでいた。これは本書全体の要約と書いてあるから、もうここだけ読めば良いようなものなのかもしれない。

追追追記。原題Tractatus Logico-philosophicusは、スピノザのTractatus Theologico-Politicus(日本では『神学・政治論』)のオマージュである、とのこと(英語版Wikipediaによる)。


_ 先日のトノーニ先生の統合情報理論の論文はここで読める。


_ 人の世では今「花子とアン」が人気だ。美輪さんの印象的なナレーションも手伝っているのだろう。俺も実家に帰ったら親が見てるので良く真似してるがそんなに受けない。俺なんかいまだに「あまちゃん」の16話辺り見てるんだよ。どいつもこいつもついこないだまで「じぇじぇ」とか言ってたくせに今は「てえ」とか言ってるし。でも「こぴっと」はちょっと好き。「ピコットさん」みたいで。しかし「ピコットさん」っていったい何者なんだ?ちなみに「ピコットさん」作詞した香山美子さんは東京生まれで山梨じゃないし、女優の香山美子さんとも別人だ。しかも「かやま」じゃなくて「こうやま」と読む。また些事が記憶されてしまった。


_ かくして死を経験しえない人間にあって苦悩を生むのは日々の生である。特にこの3連休は風邪で閉じこもっていたのが良くない。ただ、洗濯と録画の整理は結構捗った。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ きだ [知らない間に、BD-Rびっくりするほど安くなったんですね。 かつて、増え続けるDVDメディアを整理しきれなくなって..]

_ けい [DVDからBDに移行したときは「これで枚数が節約できる!」と確信したのに、結局俺はジェヴォンスのパラドクスに敗北しま..]


2014-09-16 [長年日記]

_ 北関東のあたりに結構大きい地震が発生したので、うちのDVDやBDの山が崩れただろうと思って暗い気持ちで帰宅したのだが、あれ、地震なんてあったの?と言うくらいいつもと変わらずにうずたかく積まれている。五重塔が堅牢であることは信じて良い。それと同様な振動の緩和機構が、この魔窟の建築の中にも生じていたということなのである。ただ、これも震度4強を越えると倒壊する(3.11の時の我が家の唯一の被害)ことがわかっている。


_ 今日は朝から夕まで黒犬にガブガブ噛まれて胸から下全部犬の口の中に入ってたような有様で這う這うの体で帰宅したのだった。しょんないTVで広瀬アナ見て和んでる。良いなあ、広瀬。夏休みの子供たちに野菜嫌いを克服させる企画。ピーマンとトマトとナス。ナスは焼いてぐにゅぐにゅした感触が子供には不人気らしい。広瀬アナはシイタケもピーマンも苦手なのだそうだ。俺は近頃トマトが苦手だ。嫌いと言うより、どういう訳かその昔よりも酸味が苦しく感じるのである。すごくすっぱそうな顔して食べるので母親が驚いてた。ジュースは平気で飲むんだがなあ。あまり味あわずにのどに流し込むせいかもしれないが。今日のBGMはピピ&コットの「野菜が食べたい」だ、勝手に。歌ってるのは板さんこと板垣秀雄(ベース担当、のちに山本コウタローとウィークエンドに参加)である。広瀬さんナスも嫌いだったw
 今ピピ&コットのことウィキペディアで調べたら、メンバーには板さんだけじゃなく丸山圭子(『どうぞこのまま』)や佐藤公彦(ケメ)。ケメはもうずいぶん昔だけど「あおい君と佐藤クン」(←すごいなあ、これもウィキペディアに載ってるよ)というラジオ番組であおい輝彦と一緒にパーソナリティやってて、この番組でのケメとあおい輝彦は結構好きだった。ケメの「道草」は好きな曲だった。この番組、シリーズで結構続いてたんだな。「桑田君と関口君」とか「長淵君と藤岡君」(長淵剛と藤岡藤巻:まりちゃんず)。まりちゃんずには今実は結構興味がある。「君を食べちゃいたい」のカニバリズムは素晴らしいと思うよ。


2014-09-17 [長年日記]

_ 遠出して帰り、ジムに直行してヨガ1h。なかなか良かったが、左の内腿が伸びると痛いんである。ちょっと伸ばし過ぎたかも知らん。ああでも良い。黒犬はひとまず離れてくれたようだ。ヨガが中心の生活をしたい。仕事はヨガとウォーキングのついでにしたい。


2014-09-18 [長年日記]

_ 日付変わりニコフ。昔の日記見てたら山村暮鳥の詩を書いたのが出て来て、山村暮鳥に興味を抱く。キリスト者だったらしいが、自然のあらゆるものに神性を見出そうとする態度は他の信者の反感を買ったとある。なんだかスピノザを想わせる。スピノザ良く知らないが。Amazonのぞいたら風景・銀色もざいくとかが0円だ。意味が分からないが1clickで買ったら、俺のiPadに配信したというメッセージが出た。確認しようと思ったのだがiPadしばらく開いて無くて電池ない。寝て起きてからだな。


_ 今日はいよいよスコットランド住民投票日。明日即日開票。寝る前に買った銀色もざいくは無事読めた。


2014-09-19 [長年日記]

_ スコットランド独立は否決と相成った。しかし、独立賛成が45%もいるんだよな。例えばだ。もし、榎本武揚が土方歳三と共に渡った蝦夷地で政権を樹立して、それが今に続いていたなら、日本もイギリスと同様の局面を迎えていたのかもしれない。歴史にもしは無い、と言われるかもしれないが、皆そう言いながらもしの事ばかり言うでは無いか。北海道は、豊富な天然資源を武器として、徳川氏を王の如く頂き、塩の川を隔てて度々日本国を侵す。あちらは日本、こちらは蝦夷地。我々は異なっているのだ。なぜそうならなかったのだろうか、と思う。そう言うことを望んでいると言うわけではないのだが。思うに、そう言うナショナリズムは無かったか、あるいは押さえつけられたのだろう。


2014-09-20 [長年日記]

_ こないだ買ったと思ったティッシュとロールペーパー、家に無いんだよ。どこかに置き忘れてきたんだろうか?買った記憶がニセの記憶なんだろうか?ごきげんよう(←今『花子とアン』見てたとこ)

_ というわけで札幌。最終便の飛行機の出発遅れて最終電車に間に合うか微妙だったが、間に合った。流石に夜は冷えるね。吹く風が木枯らしみたい。


2014-09-21 [長年日記]

_ 父母の元で札幌。買い物して帰ったら甥の者が来ていてiPadでゲームやらせろと喧しい。断固拒否したら大人しくyoutubeでドラエモン見てた。まあ数時間iPad占有されてしまった訳ではあるが、世の中何でも思い通りになると思ったら大間違いなのである。そのことに早く気付いて良かったな、甥の者よ。

_ 夜が静か。今回も、読み切れなかった最近(とは必ずしも言えない)の新聞を2週分持って来て、印象的な記事のあるページを切り取ってファイルしてる。スクラップブックに切り貼りするゆとりは無いので、1ページ破ってクリアポケットに挿入するのだが、100均で買った30枚一組がどんどん埋まって行くのがちょっと快感だ。そんな悪くない気分の中で、チャペックの「山椒魚戦争」に確か、アンドリアス・ヒョイツヒェリの新聞記事を集め続ける男が出て来たのを思い出した。「山椒魚戦争」、読み返してみるのも良いな。俺の好きなシーンは、女の子と2人で浜辺にいる男の子が、自分の足を見て、男のすね毛って何て醜いんだと嘆いているシーン。そんなシーン本当にあったっけ?

_ ヒョイツヒェリじゃなくてショイフツェリだった。かっこわりー。


2014-09-22 [長年日記]

_ ポロクル初めて使ってみた。ポートの場所が分かっていれば結構便利。変速器無いから坂は厳しい。市街地の西側ぐるりと回ってみた。学生時代、ほとんど出歩かなかったのは何故だったんだろ?


2014-09-23 [長年日記]

_ 北海道神宮。

IMG_3007

実は初めて行った。折しも結婚式などあり。開拓神社には松前藩祖武田信広初めて近藤重蔵、間宮林蔵、松浦武四郎などが、祀られていた。これで今月の訪札はおしまい。宮越屋でコーヒー飲んだりしてそれなりに楽しんだ。また来月。さらに寒いだろうな。


2014-09-24 [長年日記]

_ マルクス・アウレリウス『自省録』には「公益を目的とするのでないかぎり、他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな」とある。西郷隆盛遺訓には「人を相手にするな、天を相手にせよ」とある。いずれも、人の世で人にまみれて生きることへのアンチテーゼのように思われる。偉大な人は若くしてすでに偉大だが、そうであっても人の世に生きる息苦しさを感じていたのだと思う。まして凡愚な俺であれば、人と交わればたちまち心は乱れ適切な生き方をすることができなくなる。俺に友達がいないということは、俺にとっても、またそうでなければ俺の友達として迷惑をこうむるはずの者にとっても望ましいことと言わねばならない。とかく人の世は住みづらい。明治の文豪もそんなことを言った。


_ 「屍活師-女王の法医学」松下奈緒のドSな演技が大変良かった。俺も松下奈緒に「走れワンコ」ってさげすまれたいぜ。


2014-09-25 [長年日記]

_ 帰り遅くなった。時には会社から自宅まで電車でジャスト1hの道のりを歩いて帰るということもある。最近最短ルートがわかったので3Hかからずに帰宅できるが、大抵終電のあとなので寝るのが遅くなるのが悩み。しかもおなかがすくのでカップめん食べたりなんかして。そういうときに限ってまた翌朝早いというのがどうもなー。


2014-09-26 [長年日記]

_ 早く出て午後はずっと18:00過ぎまで会議やってた。進行役が全然仕切らねえんだもん当然そうなるさ。でも有意義ではあったが例外もある。暗い気持ちに、西郷南洲の遺訓は良い薬になりそうなのだが、なんというか、家に届いて数時間たったら魔窟の奥深くに消え去ってしまったのである。実にこの世界に対峙するにはニヒリズムをもってするよりないのではないか。ともかく愚かなクリークから俺は逃げたい。何度でも繰り返すが、愚か者が憎いのでは無い。自らを基準に愚かなクリークを集団全体へと広げていこうとする狡猾な愚か者が憎いのだ。そういう狡猾な愚か者が存在することに気を付けた方がいい。そんな存在がヒトと混交していずれヒトの世界を乗っ取ろうとしている。悪魔はあなたの隣にいるかもしれないのです m9っ(飛鳥了)。


2014-09-27 [長年日記]

_ 昼までだいぶ疲れてたが英会話の宿題をやって、自転車でクラスに出かける。eメールの良いとこ悪いとこという話題は楽しめたが、では良いコミュニケーションは?という話題は苦手な話題だった。俺は自他ともに認めるマルコミニュケーションの男なのである。良いコミュニケーションにとって重要なものを12個ほどの選択肢から3つ選べと言われて、俺は「信頼」と「強い企業アイデンティティ」と「eメール」を選んだ。企業アイデンティティを選んだ理由は、それがあれば俺たちは共通の基本的了解のもとにコミニュケーションできるからだ、と言おうとしたのだが、良い表現が見つからなかった。だからこれは師匠の宿題になった。まあでも師匠は結構言っておきながら宿題サボることが多い。まあ逆に俺がサボったからと言って特に文句は言わないと思う。

その後、川崎駅前までそのまま自転車で行って帰ってきた。川崎市立図書館に回送を頼んでた本が届いていたからだ。久しぶりに長距離自転車に乗った。帰りは大きなスーパーで鳥の胸肉と風呂釜の洗剤を買って帰ってきた。半袖だと少し肌寒かった。


_ [読書] 『人獣裁判』ヴェルコール、白水社、1953.

これが借りてきた本の書誌情報である。口絵に著者・ヴェルコールの写真が載ってる。ちょっとジェームズ・スチュアートかグレゴリー・ペックかと思うようなウホッな良い男だ。原題”Les Animaux denatures”(denaturesの2つのeはアクサンテギュ付き)。自然に反した動物、という感じだろうか。これはズバリ人間のことを指しているらしい。ヴェルコールと言えば「海の沈黙」が有名な抵抗文学の作家と言うことになるだろうが、これはどうやらチャペックの「山椒魚戦争」に通じるようなSF的作品であるようだ。ニューギニアで見つかった、人間とサルの中間種に位置づけられるトロピ族はチャペックの山椒魚のように安価な労働力として急速に人間社会に受け入れられる。そのことがやがて複雑な問題を生み、やがてトロピ族は人間なのかどうか、それでは人間の条件とは何か?そういうシビアな裁判が始まるというあらすじのようだ。ちなみにトロピ族は人間との間に子を持つことが可能である。本筋に関係しないのだろうが、ぱらぱらめくっていると一か所鉛筆の書き込みがあったのを見つけた。いけないことよ。それはチンパンジーとオーストラルピテクスと日本婦人の距骨(*踵骨と脛骨の間にある骨)の構造を比較する話の「日本婦人」の部分を○で囲って脇に「チキショー」と書いてあった。書いた人間が「日本」と「婦人」のどちらに何かを感じたのかはちょっとだけ気になる。まあざっと見た感じ、「海の沈黙」とはかなり趣の違う物語だ。そして、その真摯な抵抗文学にあり得る生真面目さと若干の退屈を思うとなおさらなのだが、かなり興味をそそる物語と見える。この本古本で入手できたとしても6000円以上はかかってしまう。でも書き込みしながら読みたいと思う本だ。秋にはふさわしいのかもしれない。その印象が読後どう変わるかも自分なりに楽しみではある。

_ 追記。この小説、何とアメリカで映画化されてたw 日本語タイトル「類人猿捜索隊」。しかも主演はあのバート・レイノルズ。こいつがトロピ族のメス(?)との間に子をなしてしまう役をやるのだ。バート・レイノルズと言えば、俺にとっては男臭いナルシストと言うイメージが強い。これはメル・ブルックスの「サイレント・ムービー」の印象が強すぎるためだ。髭をそりながら、鏡の中の自分に向かってウィンクする。確か2回も。これが凄く面白かった。「サイレント・ムービー」はたった一言しか音声のあるセリフが無い映画で、しかもその一言は、当時有名だったパントマイム芸人マルセル・マルソーの”Non!”という一言だった。そのシーンの次に面白かったのがそのバートのウィンクだった。ああ、見たいなあ。監督は「電撃フリント・アタック作戦」や「放射能X」なんかを作った(←ちょっとセレクションが作為的だったかも。。。まあどっちも見たことは無い)ゴードン・ダグラス。ちなみに「放射能X」ってこんなのなんだけど、大丈夫なのか。ああ、「類人猿捜索隊」見たいなあ。すごく。。。


_ さらに追記。「放射能X」の予告編、ニコニコ動画で見た。これは面白そうだ!ぜひ見ないとな。DVDのパッケージの絵に比べるとかなりシリアスな作品になってるみたい。


2014-09-28 [長年日記]

_ トッキュウジャーと鎧武2週分見てグレートトラバース第4回途中まで見てヨガ1.5h+筋トレして夕食蕎麦。帰宅して軍師官兵衛2週分見たらもう日付変わるとこ。今日のヨガはやけに汗かいた。夏の疲れがどっと出た感じで少し背中の左が痛む。


2014-09-29 [長年日記]

_ 昨日は小さな痛みだった背中の痛みが、今日は結構大きくなっていた。この日記のNAMAZUの検索窓で”*腰*”という検索タームで問い合わせをすると、2006年の10月から11月にかけて、今と同じような背中の痛みがあって整形外科に行っているようだ。この頃は飲酒と、そして大山街道の足柄峠あたりを歩いていたので、それが原因だったのかもしれないが、今は酒は断っていて街道歩きもやっていない。ヨガなんかやってるのでもう腰痛とは無縁になったものと思っていたが、そうではなかったようだ。明日もわからないので、初めてコルセットを買った。買ってすぐスーパーのトイレで着けてみた。効果については懐疑的だったのだが、つけた瞬間に感じた。「なんだ、この安心感は…」その安心感だけでもうかなり痛みが引いた感じ。実際、歩くと響き始めた痛みがあまり気にならなくなったので、坂道を歩いて帰宅。ジンギスカンを中華鍋で痛めて400g食す。今日は日中痛みをこらえてたらβエンドルフィンが大量に分泌されたのだろう、妙にハイになっていたが、これで何とか明日も会社行けるだろう。2006年はずいぶん腰痛に悩まされていたようだ。もう8年も前。その頃よりもむしろ肉体年齢は若返ってるのじゃないかとは思う。


_ コルセットしてても、下腹に力入れるとやはり痛みを感じる。そんな状態で「グレートトラバース第4回」を見ているのだが、田中さんにも感心するが、やはりカメラさんがどうやって彼の映像を撮っているのかが不思議でならない。ぜひメイキング番組もやって欲しい。もう一つ感じたのは、行く先々で待ち伏せていてサインをせがんだり”元気をもらっ”たりする、”ファン”の人々である。彼らにとっては田中さんとの出会いはほぼ一期一会なのだろうけど、へとへとで山頂にたどり着いた田中さんにサイン責めは無いだろう、とも思うんである。彼ら”ファン”にはこの偉業に自分も関わったのだという満足感が残るだろうが、本来この偉業は彼らの触れられない高みにあるのである。彼の疲労も頂点に達したように見え、体調を崩して一週間休養取ったりしていて、悲壮感が漂い始めたように見える。


_ 背中というか腰の痛みだけじゃなく、気づくと少し胸筋も筋肉痛。思いのほか昨日のトレーニングはハードだったということなのかもしれない。


2014-09-30 [長年日記]

_ 早く帰って整形外科行った。腰痛の原因はいろいろあってよくわからないのだが、とりあえず痛みが続くかどうか見ながら対処療法を続けることに。レントゲンも撮らなかった。湿布と薬もらって、ホットパックと電気マッサージ。なんか昔の治療の記憶がよみがえってきた。痛みがある中にもなんとなくのんびりした治療。湿布がたくさんあるのも心強い感じ。薬も飲んでちょっと痛みが軽くなったような気がする。気のせいかもしれないがその気になることが何より大事だと思う。明日も治療は行こうかな。今日はちょっと早いけど「人獣裁判」読みながら寝てしまう。


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