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2016-10-18 [長年日記]
_ 実は私は日曜の夜辺りから穢れているのである。かねてより仕掛けていた粘着式のネズミ取りに、まさにネズミがかかったのだ。以前から屋根裏をドタドタ走っていたので一匹ではなかったのかもしれないが、一匹かかったのだ。猫が何匹もいるのにネズミがいるのは、私の魔窟(=書斎)は猫立ち入り禁止だからなのだ。キルモアという名の殺鼠剤も併用していたので、もしかすると殺鼠剤で弱ったところを天井から落ちてきて引っかかったのかもしれなかった。しかしまだ生きていた。粘着剤が凶悪で、ずっとそのままにしておけばネズミは自ずから毛皮を剥いで逃げ出しそうな勢いだった。これまでにも被害が出ていたからかかったのは良かったと思ったが、しかしすっかり困ってしまった。この体長20cm(しっぽ除く。尻尾の長さだけでもやはり20cmほどあり、ネズミのしっぽは見るからに気色が悪いとつくづく感じた)のネズミをどう処理するかと言うことが大問題だった。良く聞くのはバケツに水を張って溺死させるか、粘着わなごとそれが生きているのを無視してゴミに出すか、といったあたりだった。もしも同様にネズミで困っていてわなを仕掛けようという人は、それがかかった後にどうするかもよく考えておいた方が良い。溺死させるのもそのままゴミの日に出してしまうのも私には選ぶことができなかった。大きな蓋付きのポリバケツの中にしばし罠ごとおいていたのだが、意を決して45Lポリ袋2枚重ねの中に罠ごと入れ、なるべく隙間ができないようにぐるぐる巻きにし(この段階でもかなり弱っていた)、窒息死することを期待しつつゴミの日を待ち、結局は息の根が止まっていることをろくに確かめることもせずにゴミとともに出したのだった。持った感じからはすでに活動を停止していたようではあったが…。次の機会までには、もっと簡単に死に至らしめる方法を考えておいた方が良いな、と思った。そして、このくらいの大きさの生物、しかも哺乳類ともなると、さすがに罪悪感をぬぐえないということを思い知ったのだった。よんどころない事情によってヒトを殺してしまった人の気持ちも、なんとなく想像できなくもない。動機がどういうものであろうと、一度手を掛けたならもう途中で止めても無駄なことで、あとは如何に手際良く片づけるかと言った現実的な問題を処理する他無い。そのためになら、はたから見れば残酷極まりない屍体の解体などもまさに『なされるべきこと』としてなされるのだろう。生命の保有者であったその生物のその大きさにおおむね応じて(あるいは人体の大きさとの類似度に応じてだろうか?)その命を奪うことには罪悪感が生じるのである。その中の小さなケースについては、あまり大人にならないうちに経験しておいても良いのではないか。つくづくとそう思う。
その後試しに以前食い荒らされたチーズを剥いて部屋に置いているのだが、食われた形跡はない。さしあたりこの家にはもうネズミはいないようだった。
_ [漫画] 「荷風になりたい 1」倉科遼原作、ケン月影画、小学館、2016.
新刊。ちょうど半分ほど読んだところだが、先日の「大江戸艶事大全」もあって、ちょっとしたケン月影リバイバルブームなのだ、私は。ケン月影さんオリジナルの作品は、絵の巧妙さに比べて安易なストーリーに物足りなさを感じ続けていたが、ノンフィクションであったり原作付きの作品だとずいぶんと印象が変わる。優雅で艶っぽい筆遣いではあってもほとんどテンプレートになってしまったかのような絵に、何かアフレコで全く元と異なるセリフ回しをあてられたかのような新鮮味を感じる。荷風と言う人にも大変興味が湧いた。『女帝』などで著名な原作者・倉科遼は元漫画家・司敬その人であり、私にはそちらの画風の方がなじみ深かったが、この作品を読んで原作者・倉科遼にも大いに興味を抱いたのだった。本書によれば荷風は明治の人だが、明治の世を”九州の足軽風情が経営した『明治』”と呼び、嫌っていたとある。こういう反骨は歓迎だ。もう一つ気づいたこと。ケン月影の描く女性、かなりの確率でわき毛を剃ってない。