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2006-02-09 [長年日記]
_ [食べ物・飲み物] 期間限定かっぱえびせん
今日は久し振りに会社帰りが遅くなった。
スーパーに寄ってかっぱえびせんを買う。期間限定品、「都こんぶ味」と「永谷園のお茶漬け味」。前者は一日履いた靴下の匂いを思わせる味だが、旨い。
_ [読書] クレッチマー『医学的心理学』読み始め。
古書店で探したのは去年9月で、爾来ずっと机の上にまさに積ん読だった、クレッチマー『医学的心理学』を今日から読み始める。冒頭、「直接体験を名づけて心と呼ぶ。」と書かれていて、衝撃を受けた。今朝まで禅坊主ばかりが出てくる『名僧列伝』を読んでいたので、これも禅僧の言葉なんじゃないかなんて思った。が、確かに体験した(あるいはする)ことの全てによって心が成り立っていると考えることは正しいように思う。ついで唯物論や唯心論、二元論などの立場を簡単に述べている。こういう記述に触れることは久し振りだ。
昔考えたこと:もし肉体と精神という二元論が成り立つのなら、肉体と精神の間には相互作用を認めないわけにはいかない。精神が肉体の動きを制御するからだ。肉体は物質だから物質と精神の間には相互作用がありえる。かくして念力は存在しうる。
問題は、その肉体は精神によって認識されているに過ぎないということだった。それに、精神が肉体を制御しているのだという認識もまた。
また時として、唯心論を信じている自分に気の付くこともある。やはり自分が亡くなってしまえば全てなくなってしまうのだ。死後の自分を歎く人々なんて存在しないかもしれないのだと。
これらの真偽は認識の外のことになるので、証明のしようも無いことだとは思うが、それでも極端に過ぎて正しくないだろう、と考えるのが健康的だと思える。そこで思考を停止して次に進もうとするわけだが、認識の及ばないことどもであってもそれらに関わらずには生きていけそうに無い、というところが世界の面白さではないかと思う。
たとえば幽霊は存在しないともするとも言える。どちらもそう信じる人の立場からは、より確からしいことだろう。そこで、いないと考えるのいると考えるのと、どちらがより精神的に豊かであるかと考えると、幽霊の影に脅かされる人にとってはいないほうが豊かであり、幽霊の生態に興味のある人にとってはいるほうが豊かだと思えよう。豊かさは計量しうる量であるから、どちらを信じるべきかということは経済学的に解かれるべきものなのだろう。