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2007-11-04 結局遊んでしまう。 [長年日記]
_ [かながわのハイキングコースベスト50から] 矢倉岳・足柄峠・小田原。
朝5時半ころ家を出て東横線・東海道線と乗り継いで小田原から大雄山線で大雄山へ。今日の私は「かながわのハイキングコースベスト50」(かもめ文庫)と、1/25000地形図「関本」を携えて、標高870mの矢倉岳を目指したわけでした。
言っとくけど、これは遊びではないッ!古道・旧街道のウォーキングが危険になってきた昨今を憂い、山中の地形と地形図の等高線の関係を頭に叩き込むことと、フリントマッチとエスビットストーブを使いこなしてアウトドアでコーヒーを淹れる修練を積むことと、世界がやはり美しく生きるに値するかどうかをこの目で確認することと、無傷で帰宅することとを課題とするという、過酷なトレーニングなのだッ!
というわけで目いっぱい楽しんできてしまいました。矢倉岳山頂は四方すべて見晴らしが良かったし、帰りはまた足柄峠を訪ねて、2度目の足柄古道を歩いて、地蔵堂でコーヒーを飲んで、そればかりか帰りは乗り換えの小田原を少し散歩して御幸の浜で珍しげな小石を拾ったり駅のそばのお店で釜飯を食べたりして。
繰り返し言っておく。これはただの遊びではないッ!明日を生き生きと生きるための修練なのだッ!では解散。
学会、どうしようかなあ…。早寝して明日の朝考えようっと。
_ 海岸で拾った石。
生命とは対極にある「石」になぜ人は感情を移入することができるのだろう。今日、小田原の海岸で拾った4つの石はまたしても私にそんな問いかけをしている。
どこにでもある小石、しかし、では「こんな石を拾っておいで」と誰かが望んだとして、そんな石を一体どこから探し出してくればいいんだろうか。
石は水の流れに似ている。どちらも心を映すから。そして、その心は、そのときに目撃した石、そのときに目撃した水の流れによってだけ、映されている。しかし石が水と異なるのは、その心の有様を固定しているということだ。石を拾うということは、その場所で感じた自分の心をカメラで撮影するようなものなのかもしれない。易の筮竹を振り分ける行為にも似ている。
というわけで今日、御幸の浜で拾った私の心、4つ。
ひとつめ:
うずらの卵に似ているなあと思った。これとよく似た石はこの海岸のあちこちに見られる。その装飾が単に面白かった。
単なる黒っぽい石なのだが、よく見るとあちこちにある欠けた面に、赤い色が見える。つまりこの石の内部は赤い。川や波に削られた表面は黒いというのに、その中は赤いのだ。これはどういうことなんだろう。この石には表皮と内部があるのだ。
この石は4つのうちで一番わかりやすい。薄闇の中にひときわ輝く月。ここにはウサギとは全く違う月の伝承が息づいている。
これは天然石ではたぶんなくて、どこかから川に落ち込んだレンガが長い時の中で磨かれて礫となったものだと思う。人工物が、その本質を変えることなく自然の物になってしまった稀有な例。
こんな感じで石を集め続けたら私の部屋は本だけではなくて小石で埋め尽くされてしまう。どちらも密度(質量/体積)が大きいから、二階におくと家が崩壊してしまう。 ♪