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2010-12-19 [長年日記]
_ [食べ物・飲み物] 汁かけご飯大全・序。
←野菜炒めを汁ダクにしてご飯にぶっかけて食べるのが好き。絵的にはかなり残飯テイストで日記に貼るに耐えがたい。ええい見かけより味と栄養ぅ!食べ物は栄養があるからおいしいんだ(←勘違いしてる人)。おいしくて栄養のバランスが取れている汁かけごはんのバリエーションを増やしたいと思ってる。作る手間はカレーのそれを最大としてそれを超えないことが望ましい。わたしのカレーはスパイスを調合するところから始めるため普通の料理としても手間は大きい方だ。より正確に言うと、スパイスの一部を庭で育てるところから始めているから最大1年がかりで作ってる。
_ うめちゃん手術成功。
ようやく避妊手術終了。来週、抜糸に行く。肝臓の様子を慮って3か月ほど投薬を続けて血液検査を受けることになった。昨日のガスの件と言い、何だか瓢箪から駒的に消費のモーティベーションを与えられていると感じる。まあほっておいたら私もうめちゃんも悲しい思いをすることになるだろうから。ところで、多頭飼いの場合、投薬しなきゃいけない猫は他のと別に食事を摂らせなくてはいけない。三歳児の愚かな脳に対して「君のご飯はこっちだよ」とか言い聞かせても全くわかるはずが無いので、已む無くケージ飼いにして別の生活をさせるしかない。ケージに閉じ込めることや、あるいは避妊手術を施すことでさえ「可哀想」と思われるかも知れないが、実は多頭飼いには、その童話的なイメージとはうらはらに、トム・ゴドウィンも裸足で逃げだす冷酷な現実がある。彼らの牙や爪の威力をなめてはいけない。手に負えなくなって鼠算式に近親相姦の家族が増殖して結果、家が比喩的な意味で無く本当に"崩壊"してしまう例がいくつもある。深刻な病気にかかってしまった場合に不本意ながら延命治療を受けさせられないことだってある。外に出た猫が怪我や病気を負ってあるいは妊娠して帰宅したなら適当な処置を施さざるを得ない。トイレも食事もしつけもサボればサボったなりの報いを受ける。これが多頭飼いの現実であり、とてつもなくリアルな世界である。そもそもどんな飼い方にせよ、ペットと暮らしたいと思う気持ちの奥底には子供を愛するのと匹敵する煩悩がある。「子煩悩」と言う言葉は肯定的な意味に解釈されることが多いようだが、煩悩というからには本来遠ざけるべきものであり「私はこんなに自分の子供を愛してしまっているのです、恥ずかしながら」とでも言うのが相応しいことなのです。私は猫たちと暮らす生活が長く続いてほしいと思ってはいるが、そんな生活が誇らしいなどと思ったことは無い。家族愛などと言うのもそういうものであって、理性的な生き方とは本来関係が無いのではないだろうか。だって、人の行動選択はホルモンの強い支配の下で行われているのだから。ひねくれた考え方なのかな?でも仏教の本を読んだり性欲の本を読んだりして理解したところを素直に応用すると何故かこうなってしまうんだよなー。
_ 旅支度。
手術に預けている間に、神保町に出かけて伯剌西爾の珈琲と本を2冊ほど、そして安売りしてた登山用のズボンと靴のインソール、薄手の手袋など購入。家にいる間に紀伊田辺から南に向かう道の確定作業を行なう。年末年始は猫たちを置き去りにして大辺路を歩く予定。道の確定が済んでいないために宿を確保していない。正直焦ってはいる。が、いざとなればテント泊で歩き続けるという選択肢が残っている。よほど天候が荒れて冬場に台風でも来ない限りは浜辺に泊まったり橋の下に宿を取ったりしてもあまり問題は無いのではないか。そういうわけで、和歌山の方々には、そういう感じの人を見かけても石をぶつけたりしないで欲しいと願う。できれば四国八十八か所に負けることなく熊野古道の巡礼者にもひとつ接待の気持ちをもって接していただけないものか、と。
そういえば今年の年末年始は30年余り振りに酒の無い年末年始になる予定だ。しかし今のところは、それを味気無いこととは感じていない。自分にとっては大きな挑戦だと思えている。ここ3か月の断酒の間、酒が飲めないということで自分を惨めに感じた時間は思ったほど多くはなかった。夢に見ることさえまれだった。だが、ほとんどの人間が飲酒している場にあって自分だけ飲まずにいれば、いろいろな理由で私は惨めな思いをするに違いない。そういうわけで、ときどき知り合いのスナックのママが見舞いの電話をくれたりするんだけど、ごめんなさい、やはりお店に顔見世する訳にはいかないのよ。
_ トム・ゴドウィン=「冷たい方程式」の作者。