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2010-12-14 「高齢者の性の交わりは藁火のようだ」−モンテーニュ− [長年日記]
_ 今朝方見た夢は、私を主人公とする寓話だった。
私のことは世界中の多くの子供たちが、寓話の主人公として知っている。港に係留された小さな船を家として猫と共に暮らしているペテン師と呼ばれる男。それが私だった。私に関する絵本は沢山出ているが、私自身が一番好きなのは、私のことを気に入った一人の子供が描いた絵本だった。表紙にも、裏表紙にも、一匹の猫を伴った私の絵が描いてある。どうして両方に同じような絵をその子は描いたか、わかるだろうか?
それは、その絵本を作った子供が、物語の始めから終りまで、つまり私が生まれてから死ぬまで、ずっとその猫と私が共にあるようにと願って描いたからなのだ。その絵本を見るたび、私の目頭は熱くなる。
思いも寄らない、凝った構成の夢だ、と思った。夢はこのようにして自覚の無い感情を自分に気づかせてくれることがある。だから夢を見ることは好きだ。夢を見る力があるならば、そして、永遠にそばにいる一匹の(全く、一匹で十分だ!)猫がいるならば、そして必要な時はいつでも大海原に出ることのできる住処があるのならば、私はペテン師と呼ばれることを厭わないし、それ以外のすべてから切り離されて、絵本の中だけにいる存在になっても構わないと思う。
現実には、耐えきれないほどの醜いものが付いて回るものなのだが。
_ 昨日が「正月事始め」で、正月を迎える準備を始める日、ということだ。昔の人の知恵ですね。このくらいからやっとかないと大晦日までに用事が終わらないってことなんだろう。ちなみに今日は四十七士が討ち入りした日だったそうだ。それで雨降りだったのか。暖かくて雪にはならなかったが。降雨の特異日なのかもしれないな。
そういう訳で、特に大掃除とかしない年が近頃多かったけどちょっとくらいやっとくかと。しかし面倒くささが変わった訳でもないから楽をしたい。風呂の掃除のためにデッキブラシを買ってきた。天井から壁からこれで全部磨くつもり。ふた月くらい前からうちのお風呂にはナメクジが一匹棲みついている。いつもなら流したりつまんで捨てたりするんだがなんとなくほっといたら主のようにいつも顔を見せるようになった。別に愛しいとかも思わないが、ちょっともののあはれを感じる。そう言えばナメクジって催眠術を使ったりテレポーテーションしたりするんじゃなかったっけ。単なる妄想かなあ。それとも水木しげるの漫画のネタだったかなあ?
_ [読書] 「脳と性欲」大島清著(続き)。
近頃会社では、何かと「裸エプロン」のことが話題になる。もちろん話題に取り上げているのは概ね私なのだが。事あるごとに既婚者に問いかけてみるのだが、これまでにリアルで奥さんに裸エプロンをしてもらったという者がいない。一体何のために結婚したというのだろうか。私には不審である。ところで、タイトルのモンテーニュの言葉はこの本に書かれていたことだった。以下引用。(←最近会社で著作権に関するeラーニングを受けて、引用であることの必須条件の一つにどこが引用でどこがそうでないかを明記することが挙げられていたので、さっそく実践にうつす。このごろ新聞記事とかを引用してるから場合によっては日経に訴えられかねない。もちろん以下の引用は引用の引用なのだが、オリジナルのどこを引用するかと言うことは一種の著作と解釈される−コラージュ作品のように−から、この場合"引用の引用である"ことを明記せねば…ああ面倒くさいな。中国に生まれておけば良かあqwせdrftgyふじこちゃ〜ん。前置き長すぎる。ここからホントに引用→)「『藁火は藁火であってはかない。それは生殖の情火につながっていない。だが藁火は、一瞬、二人をほんの少し『あたためて』くれる。年寄りの性生活は、性感だけの性のようにも思われる。それはおだやかな愛撫だとも言える。あるいはまた、心踊りの衰弱した、習慣化された皮膚の接触とやわらかな刺激の交換であるのかもしれない。』私たちは、人間だけにしか存在しない性欲の発現の仕方−つまり性のあり方を高齢者の性にみることができる」(引用ここまで。二重カギが引用の引用部分)。素敵な文章だ。裸エプロンが無くても老いらくのセクスが待っているのならそれを味わうためにパートナーを得ることも有意義なことと思う。
この本を読んでるうちに、私の中にはホルモン教の如き思想が芽生えてきた。念のために書いておくが、モルモン教では無い。人は自分の行動を思索の結果と考えがちだが、多分それは誤解だ。人はホルモンをはじめとする化学物質によって支配されている。ここで言う支配は比喩的な意味では無く、本当に人類は体内に存在する薬物の支配下にあって行動を起こしているのではないか。薬物に依存する人は、私も含めて、その薬物を摂り続ける行動が自発的なものであり、自分にとって何らかの利点があるからそれを摂るのだ、と言う。自分をだましているばかりか、ともすれば他人を巻き込もうとさえする。あるいは、この人こそが自分の永遠の伴侶であるという選択は、運命的な出会いと考える。自分の意志を超えた何か超人的な存在があるかのように言う。そんなものは無い。ただ、そのように解釈することで安心を得る自分がいるばかりだ。自分の未来は新たに生まれた幼子のためにあると考えようとする。まるでそれによって自分自身が永遠の命を得たかのように幸福になる。自分が滅びたあとに自分の存在があるということがなぜ信じられるのか?かなり昔にエピクロスがその間違いを正していたはずなのに、人にはそれを受け入れることが難しい。自分の生以前も、死以降も、自分とは何の関係も無いというのに、どういうわけか人は死を恐れ、新たな生命の誕生を必要以上に喜ばしいことと感じる。
人は何か崇高なもののために理性的な行動をしているわけではなく、ただ遺伝子の存続の手段に過ぎず、生物の行動を支配するのはホルモンの分泌に過ぎないのではないのか。その陰に思索があるにせよ無いにせよ、どんな生物も自分の行動には意義があり、生命現象は崇高なものであると思っているに違いない。では何故、強姦の恐怖が排卵を促進したりするというのだろう?
ここまで書いてみたら、ホルモン教も何のことは無い、いわゆる「中二病」と言う奴じゃないか。34年も経て再び感染するとは思いもよらなかった。ただ、あの頃の症状と違うことが一つある。この病を得たからと言って、世界はつまらなくなりはせず、かえって世界が豊かであることの証拠のように思われることなのだ。それにこの記事のことをあまり信じない方が良いかもしれない。なにしろ私は、世界でもよく知られたペテン師らしいから。
_ ところで、さっそく風呂場でデッキブラシを試してみた。もっと早く気付いていれば良かった!何と言う使い心地。「夏子の酒」で豪田さんが苗代の草取りに勧めていただけのことはある。ついでにもう一つ気付いた。ヒノキの桶に沈着した水垢には重曹が有効に働いているようだ。何で今まで…。
_ 大きな亀の子だわしも買った。
どこで買ったか自信が無かったのだが、この日記にNAMAZUを付けておいたおかげで、横浜東急ハンズであったことがわかった。全文検索で「*たわし*」と入力すると2007年の4月にパローレパローレと歌いながらベルギービールと一緒に購入したことがわかった。気が狂ってるな、このときの私も。