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2018-02-18 [長年日記]
_ 河津桜開き始めた。
_ 冬来りなば春唐辛子、ってね。
_ [ヨガ] 瞑想と銭湯。
いつものジムはメンテ期間で休みとなった。そこに通う道の途中に小さなヨガスタジオがあって、気になっていた。そこで簡単に体をほぐしてから瞑想をする会というのが開かれるということだったので参加。佐保田鶴治先生の流れをくむ教室。ヨガのアサナは瞑想に至るためのステップなのである。誰かからの指導を受けて瞑想をするのは初めての体験だった。近いものではもっと以前にとある寺で休日に開かれている座禅の会に参加したことがあったが、和尚の講話は気付きというものの無いつまらない時間潰しであったし座禅の後の粥の膳ではやれ配膳の順を乱すなだの塩を回すのを止めるなだのとやたら叱りつける坊主がいたのですっかり嫌になった、というつまらない思いをした経験があった。それも修行のうちなのかもしれないが、宗教に限らず小さな集まりの中に時折見受けられる閉鎖性を感じて、二度と行かなかった。以来そんな閉鎖性を恐れて小さな活動単位というものを敬遠していた向きはあったかもしれない。今日の瞑想の会を企画しているスタジオからは時折、私の通っているジムのヨガクラスに代行でいらっしゃるインストラクタの方が所属している。その方を見ていて信頼を感じていたから、参加したのだった。それなりの指導を受けて、日頃気になっていたことー私が自分流で行っているものは本当の瞑想ではなく野弧禅と呼ばれる類のものなのだろうか、そんなことを確かめたいという気持ちもあった。
短い時間の中での経験が教えてくれたことーこれは佐保田先生のおっしゃったことらしいのだがー瞑想で心を無にすることはとてもできない。だから何かテーマを決めると良い、とのこと。たとえば連想を続けていくこと、あるいは過去の経験を一つづつ思い出していくこと、あるいは順を追ってプレゼンの準備を一つ一つたどっていくこと…瞑想は神秘体験では必ずしもないのだった。私の参考にする瞑想の本には、心に何かが浮かんできたらそれに「ただの思考」と書いたラベルを付けて受け流していく、ということが書かれていた。マントラを唱えつづける、ろうそくの揺らめく火を凝視する、聖人の絵を見つめるなど、瞑想にはさまざまなテクニックがあるようだ。ろうそくを見つめる瞑想は私の好きなやり方だ。どうしても心から消えてくれない嫌なことに捕らわれることもある。その原因がこの世になければ良いのだろうけれど、そんなことを自分にコントロールすることなどできないから、考えてしまう自分を素直に認めてその有様を遠いところから眺めているような視点が得られると良い、と思う。たぶんそれは、今はできないができるようになりそうに思う。イエスは自分の敵を受け流すどころか愛せなどともっと酷いことを言った。そんなことはとてもできないが、それに比べると受け流すことはもっと簡単に思われるのだ。そんなわけで、佐保田先生の簡易体操の動画がこちらです。瞑想の前に、十分なヨガの時間がないときはこういうのをやるのもいいように思われる。
その貴重な時間が終わって、いつもならジムで入浴して帰るところだが、今日はもう何年も行っていない銭湯に出かけてみた。ほとんど何も変わっていない。この、入社したころから時々行っていた銭湯には珍しいことに露天風呂があり、空を眺めながら入浴することができる。寒い時も良い。頭を冷やしながら長く入浴していられる。風呂上がりには良くアイスを食べたものだった。簡易体操をして瞑想、そして銭湯で露天風呂。およそ今日望むべき最高の体験になったように思う。
_ 西郷どん、録画だけしてして全く見てなかったが、今ちょうど橋本愛ちゃんの輿入れシーンやってる。美しい。無愛想なのを無理に笑おうとする演技、めっさ可愛い。まあ見るのはここまでにしておいていずれ最初から見るわ。見る物多すぎる。まあ受け流すさ。「見る物」ってラベル貼っておいてな。そうそう、今回のサブタイトル「背中の母」なんだが、ちら見して「ン?『背徳の母』?」って読んでしまって二度見した。俺の腐れ外道っぷりを笑うがいいさ、ハハ。。。