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2024-06-21 [長年日記]
_ 今朝は二日酔いだった。その日は朝から「今日は帰宅途中に軽く飲もう」などと固く決心して出かけたのだったが、その日の午前に、どうにも受け止めきれない出来事が知らされたのだった。
知らせを聞いたとき、おかしなことに僕に生まれたのは怒りの感情だった。それから、これは怒るべきことではないのだ、と気づいた。そしてその事実の周辺では僕よりももっとそれを受け止めることができずにいる人たちがいる、ということにも。
幸いなことに、僕にはエピクロスの教えやグリーフ・ケアということに触れた経験がある。悲嘆の時は重要であるということを学んでいたのだ。そういう訳で、軽い飲みの計画はその出来事にまつわる追想という儀式へと意義を変えた。
割と最近思い知ったことは、長く生きていくということは、かかる出来事を自分がなすより前に、他の人がどんどんなしていってしまう、ということだ、という事実だった。これは確率の問題ではないから、帰無仮説も対立仮説も立てる必要が無い。荒井由美が卒業写真を開かねばならないような気持ちになったとき、僕はエピクロスの言葉に触れたくなる。悲嘆の時を過ごした。想い願っていた幸福な未来を叶えられなかったものがいるということに思い至った時には、流石にこっそり泣いた。飲み屋で泣き濡れるオヤジなど全く絵にはならないが、世界はたくさんの色のうちのひとつを喪失したのだ。終わりの電車とバスのあるうちに帰宅したのだが、朝目覚めるとメガネがどこかに行っていた。スペアは何故か二つあるので万全だった。朝は雨。このようなことがあるときにはなぜかいつも涙雨が降る。慰めの雨が喪失感に苛まれた心を潤すのである。今は悲嘆ではなく追想を、と深く願う。