RSSフィード:http://alpha-ralpha.com/diary/index.rdf
2006-07-15 [長年日記]
_ なんとなくまったり。
アニメ『彩雲国物語』なんか見ている。
「わたしを寝台に連れ込もうなど100年早い」
男が男を誘うようなシチュエーションが、この手のアニメでは至極当然のことになってしまっている。これもアニメ、というかBLのファンタジーのひとつ。
ファンタジーには他にも登場人物、極少数除いて全員女(逆もあるかも知れないが見たこと無い)
とか、食物連鎖を無視した異種間の友情とかいろいろあるんだろうけど、なんかこれ以上思いつかない。
_ 試験近づいてる
学習センターで聴講。混んでた。席7人待ちだったが、割とすぐに席が開いた。
3コマ聴講したら6時近くなったので帰る。あと4コマ残ってるなあ。
ユング心理学、コラージュ療法。先生は偶然が必然に,という言葉を何度か口にする。共時性を意識しているのだろうと思う。共時性こそはユングが後世に残した最大の課題で、これこそが超常現象と呼ばれるさまざまを本当に科学的に(ユングは自らの方法を"科学"であると考えていた)取り扱う鍵だと思う。だから後世の人間の一人であるわたしも、この課題を無視することができない。まあそんな大それた妄想はともかく。
コラージュと易の卦を立てることは同じなのだと気づいた。易者は筮竹を混ぜ、分け、選ぶ。同じようなプロセスがコラージュを作る場合にも行なわれる。優れた易者は、筮竹を扱う作業や卦を立ててそれを読む行為の中に豊かなイメージを抱くのだろう(64通りに変爻を加えたバリエーションはさしあたり人類にとっては豊かなイメージを託することができるほどに「十分に多い」と言えるだろう)。易者はコラージュボックスの代わりに筮竹と易経を使うことができるというわけだ。
人間は内面を様々なものに仮託することができる。偶然にあらわれた現象に内面を投影することは人間の特殊能力の一つだ。寄せ返す波にも、雲間に見え隠れる月の光にも、庭に植えた草木の生育にも、ラーメンのスープの表面に浮いた油滴の分布にも、茶の湯にも筆運びにも、複雑な特性を示す石の反射スペクトルにも、人は自らの理解しがたい心の動きを映して見ることができるのだ。しかしその投影される側のモノたちには、本来そのような意図は有り得無く、ただ事実としてそこに在っただけだ。それでも心の内面を投影する側のわたしたちは、その対象を「因果律には無関係に」自由に選ぶことができる。丁度、既存の雑誌のさまざまなページから要素を選び、切り取り、心の奥底の動きを眼前に浮かび上がらせるために集め、糊で貼り付けるのと同じように、現象の因果律とは無関係に複数の現象を意識する。
もしもこういったことがシンクロニシティと呼ばれる事柄に関係しているなら、そのことはまた"科学的に"証明されなくてはならないだろう。その手始めとして、ラインの実験結果を再吟味することには意義があるかも知れない。ここに統計的推測の問題が絡んでくるので、15000円払って買ったラオの教科書も無駄に高くは無かった、ということになるのかもしれない。まあこれもまた大それた妄想に過ぎないのかも知れない。