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2013-01-20 [長年日記]
_ [テレビ] 「歌会始」
邦画を見た後は芸能とか芸術とかに関する映像を鑑賞することになっているので、1/16に放送された、宮中行事の歌会始の録画を見ている。せっかく皇室と言う世にも珍しい家族が同じ日本にいるのだから、博物学的な興味によってその行事を知っておくのも面白いのではないかと思って録画してあった。これを見てみると確かに面白い。今年の歌会始は12歳の「実は僕家でカエルを飼っている 夕立来るも鳴かないカエル」という歌から始まった。このコミカルな和歌に、おごそかな節をつけて歌われるのである。歌い手の名前は、姓と名の間に「の」をつけて呼ばれるので、この12歳の作者は"オオタノカズキ"と呼ばれた。歌が詠まれている間中立っている小さな歌人は、なんだか怒られているような神妙な顔つきで立っている。それは終わると女子高生の、昨年の金環食の歌が続く。彼らは、自分らの作った言葉が、かくも親近感の無い節で読まれることに特別な違和感を感じていたに違いない。「カエル」だの「ネクタイ」だのに和歌の節が付けられ、一様に洋装をまとった人たちに詠まれる歌たちである。ちょうど先週末の雪が解け残った皇居である。福島の歌人が安達太良山を詠んだ歌のとき、その安達太良山が映される。「安達太良の 馬の背に立ち はつ秋の 空の青さを ふかく吸ひこむ」。この山の空の青さは、高村智恵子が「ほんとうの空」と呼んだそれに重なるものである。ついで新潟の歌人が竜飛岬の海風を歌う。さすがに陸奥の国も歌枕は宮城までと見えて、竜飛崎は現代になって歌枕となったものと言えるだろう。古代-中世の歌枕は、実際に見に行く機会の極めて少ない人々によってイメージの固定化された幻想の風物である。現代の"歌枕"は、そこを直接訪ねることがたやすくなったがために視覚的には同一の物として共有されながら、その心像風景はおそらく歌い手によって全く異なったものとなっていることと思う。
入選の十首が終わると撰者の歌となる。書き忘れたが、今年の題は「立」であるので、夕立が立ったり馬の背に立ったり銀杏の古木がビルの間に立ったり、召人が歌ったようにお伊勢さんの心の御柱が立ったりしている。
皇族を代表して憲仁親王妃久子様は雪の大山が立つと歌った。コハクチョウを撮影に行ってこの山を見て詠める、ということだった。日嗣の皇子の御女(東宮妃・雅子様)は愛子様をお産みになった時の月が立待月であると後に知ってそれを歌った(当人は不在)。皇太子さまは大公孫樹の木が学び舎に立って巣立つ子らを見守ると歌う。これは学習院の校庭の風景である。皇后陛下は「天地にきざし来れるものありて 君が春野に 立たす日近し」と喜ばしい春の到来を切望する歌を詠まれた。最後に天皇陛下の御歌が詠まれる。「立ゥー ということを詠ませたまへる大御歌 万座毛に昔をしのび巡り行けば 彼方(あがた)恩納岳さやに立ちたり」沖縄の歌である。昨年11月にここを訪ねて琉球王朝に思いを馳せた歌とのことである。大御歌は三度朗詠されて、宮中の新年の儀は終わったのである。来年のお題は「静」。半紙に毛筆で書いて、〒100−9111 宮内庁 にあてて 「詠進歌」と書いて送る。昨日からの続きで今宵はだいぶ遅くなった。寝床には「シュマリ」第4巻とシュレーバー回想録が待っている。起きたら特撮だ。
おはようございます。朝昼兼用食をとって新聞を見たら大鵬さんがお亡くなりになってました。良い天気のようです。
_ [読書] ユリイカ臨時増刊号・平成仮面ライダー続き。
ユリイカの続き。社会学者・若林幹夫の記事が面白い。昭和のライダーの戦闘の舞台はなにもない造成地であることが多かったが、平成ライダー達はかつての戦闘の舞台であった造成地の後に立てられた商業施設やスタジアム、高架下などである。平成ライダー達の闘う敵は、外部からあらわれる「我らを」そして「我が街狙う黒い影」でなく、都市の中で我々の中に紛れ込んでいる恐怖である。アギトの不可能殺人はまさに都市伝説と重なり合うものだったことが思い出される。社会学(都市学と言うべきなのだろうか)的なアプローチに或る可能性を感じたのが私にとっては日曜の朝にふさわしい気分をもたらした。"かつて街道であった"というしるしだけをよすがにいわば時間を超越する私の好きな旅は、若林氏の言う「社会の地形」という捉え方によって新たな意味を賦与される。そんな可能性を感じたからである。
_ [特撮] 「仮面ライダーウィザード」
ところでウィザード。なぜこのときに魔法使いなのかということがやはり腑に落ちないが、じゃあ何故鬼なのか、何故吸血鬼なのか、電車なのかということもあったから、物語世界の描写が深まるに従ってわかってくることなのかもしれない。ただ、仮面ライダーというヒーロー自体がそもそも魔法使いのようにさまざまの不可能を可能とする存在なわけだから、魔法使いでありかつ仮面ライダーであるということは超能力を操る存在としては最強というよりもむしろ冗長、ということにもなってしまう。そういういわば嫌味のあるゴージャスさがこの作が今一つ私には好ましく思えない原因なのかもしれない。では「魔法戦隊マジレンジャー」はどうだっただろう?彼らはそういえば現実世界に生活してはいたけれど、敵味方の抗争は本質的に魔法世界におけるものだったと記憶している。現実世界との接点はあったけれど、彼らの物語の主要な部分は魔法世界にあったと言えないだろうか。その世界の中であれば魔法と言う能力は標準に備わっているものなのであるから、魔法が使えてさらに戦隊ヒーローであるということは冗長さを失う。しかも戦隊ヒーロー達は仮面ライダーたちに比べるとずっと限定的な能力しか持ち合わせていないことが普通だ。本郷猛だって改造される以前からずば抜けた能力の持ち主だったのだ。改造人間になるためにも資格が要る。ましてさらに魔法使いでもあるなんて。なぜどちらか一方ではいけないんだろうか。ついそう考えてしまっている。仮面ライダーを含むヒーローモノにおいても自分はある種の神話的な属性が備わっていることを強く要求しているのだと思う。それは肉親殺しであったり考えを異にするものたちの間の抗争であったり、人類のレベルで繰り返される苦悩であったり、人外から突然およぼされる理不尽な災厄との戦いであったり。。。そういうわけだからだろう、自らの存在をドラゴンと争奪しあうことになるであろう今後の展開にこそ期待したいのである。