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2013-09-09 [長年日記]
_ 宝亀元年(774)海道の蝦夷が蜂起したという続日本紀の記述が気になってきている。「海道」とはここでは宮城の海岸付近を言うようなのだが(ちがうかも)、実態としても言葉としても「海道」あるいは「街道」の成り立ちに興味がある俺としては捨て置けない。これに関する「弘前大学國史研究」の記事が読みたいと思ったら俺の学校である放送大学においてあるらしい。残念だが、これを神奈川に取り寄せることはできないようなので、久しぶりに千葉に行くかと言う気になりつつある。そういえば、下期の面接授業が決まった。念願の長唄の講義。これで三味線にはじめて触ることができそうだ。
_ 今朝がた見た気がかりな夢は、偉大な存在が矮小な姿となってあらわれるなんとも物悲しい夢だった。俺は不注意からその矮小になった偉大な存在を瀕死の状態に追いやってしまい、激しく後悔しながら早く医者をと急いでいた。この夢が本当に夢であったことには感謝している。昔、美しく立派な鶴のような大きな鳥が、干からびた自らの子供を俺に食物、というか供物のように差し出す夢を見たことがある。俺はそれを茶漬けのようにして食べようとして箸が進まなかった。あのときの鳥は俺に何を求めていたのか。俺たちの祈りが必ず神意にかなうとは限らないように、そのときの鳥の思いは俺にはおそらく理解できなかった。俺は俺の夢において神のようであったが、その神はまるでグノーシスの神であったのだ。この二つの夢はちょっと共通点がないように見えるが、俺には似た夢のように思えて仕方がない。丹頂鶴のような鳥はやはり俺にとっては偉大な存在と言えるのだが、しかしその分身である子鳥は、アゴの干物のように矮小な存在となっていた。俺はそれら矮小な姿へと貶められた者たちへの憐みでいっぱいになる。俺などよりもよっぽど立派な存在であるはずのそれらが、不当に哀れな姿をさらしている。哀しく、また怒りを感じる。あなたがたがそんな姿になる理由などない。世間には本質的に醜く恥さらしな存在などほかにたくさんいるではないか。人に擬態した虫けら、おのれの醜さを巧みに相対化しようとする者たち、そしてその醜い存在をさらに増やそうとするオークの王たち。彼らこそが俺の敵だ、彼らと同じ天を仰ぐことはないだろう、と心からそう思う。そういう独りよがりな怒りである。この怒りの対象となるものなど、本当はどこにもいないのかもしれない。オークの王たちはまさか自分がそれだとは思ってはいないだろう。そうであるなら、哲学的ゾンビと同様、人間とオークの王たちの違いを証明することは心底難しくなる。そしてそのうち、オークだろうが人間だろうかいいじゃないか、ということになる。そこがオークたちの思うつぼなのであり、哲学的ゾンビなどとは比べ物にならない害悪、つまり人間の敵たる所以なのである。