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2013-09-18 [長年日記]
_ この休みに録画していた「八重の桜」「獣電戦隊キョウリュウジャー」「仮面ライダーウィザード」など立て続けに見んとしてさっさと帰ってきた。
_ [特撮] 「獣電戦隊(バモラ)キョウリュウジャー」
キング強すぎる。「終生の仲は修正できません」ノッサンww 変身ポーズをうろ覚えで甥の人に披露して冷ややかな視線を浴びせられたのは慙愧に堪えない。
_ [特撮] 「仮面ライダーウィザード」
最終回じゃなかった。賢者の石を手に入れたソラは無差別に殺戮を始める。メイジ達もそれぞれの理由によって戦う。今回のトドは存在感ある。マイちゃん以外のメイジの活躍ももう少し活躍が見たかった。内なるドラゴンとの確執ももう少し。コヨミちゃん最後にちょっと笑った。でもやはり暗い。凜子ちゃんおいしい。そして今だから言うが、小倉久寛は最初から最後までずっとキモかった。子供の生まれたトドは「可愛いすねー」とか言っちゃってすっかりトドに戻ってるしww 次回、異世界編。甥の人が「ウィザード最終回じゃなかったじゃん」と俺の過ちを責めんとするので「いや、実質的に最終回だった」と大人の返答をしてやったら答えに窮していた。ざまを見よw
_ 先日ユリイカの「平成仮面ライダー」を読んで以来、リアルタイムで仮面ライダーを見ながらいろいろな思いを浮かべていてだんだん、創り手の意図をはるかに飛び越えた「過剰な評論」のことが気にくわなくなってきた。何と言うかその気にくわなさは、一連の押井守作品を見たときの気にくわなさに通じるものがある。それは二次創作という意味で同人誌のエロ漫画にも通じるものだ。一次作品に対するいろいろな意味の深い愛情は良く理解できる。だが、評論と言うものはそれ以上のものとしてありがたく受け止めるべきものではないのかもしれない。評論というものは誰のために書かれるものなのだろうか。誰が読み手であると意図して書かれるものなのだろうか。評論の役割(ああ、確かに役割と言うものがあるだろう)ってなんなのだろう。だがそんなことは、一流の評論に触れてから考えるべきなのだろうと思う。
_ [怒りの日記]この人痴漢です(男)
札幌から帰ってくるときに感じた怒り2題。その一つは、「統計学が最強の学問である」を読んで感じた勢い余る若書きの読みにくさ。ぷりぷりと怒りながらそれでも読み続けなくてはならない理由がある。耳障りの悪い言葉の中にも、学ぶべきことはある。もう一つは、飛行機で隣に座ったあんちゃんがよほど疲れていたのかそれとも俺に(同)性的魅力があったからなのか、やたらにこちらに寄りかかってきたことである。寄りかかるのをあからさまによけてみたり、腕をトントンと叩いて気付きを促しても寄りかかってくる。たまらずアテンダントを呼ぶボタンを押したがおり悪く離陸直後で誰も動けない。もしやそれを見越しての迷惑行為であったのだろうか?トラブルになることは避けたかったが、耳元に「寄り過ぎですよ!」と訴えるとようやく離れた。似た体験は過去にもある。電車での帰り道、隣に座ったあんちゃんが居眠りする振りしておれの太ももに手を触れてくるのだ。振りほどいたらそれ以上すり寄ってこなかったのだが、おり悪く会社の同僚が向かいの席に座っていて一部始終を見ていたのが大変恥ずかしかった。そういうわけで、俺は痴漢の被害を受けた女性の苦しみが良くわかる。この気付きは重要かもしれない。だが俺に手を出すホモには生まれてきたことを後悔するような手痛い仕打ちを浴びせてやりたいと思わずにはいられないのである。俺はそのときはさすがに俺のアニマルスピリットを抑え込むことができる自信が無い。痴女の被害にはちょっとあってみたい。